獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

死に損ないの嘆き

 相変わらず生きているような、死んでいるような日々が続いている。心臓が鼓動を刻み続け、肺が呼吸しているのでどうやら未だ生きているのを実感できるが、ただそれだけと言えば言えなくはない。食い意地が張っている老人ゆえ、今日はこれを喰いたいなどと言えている間は多分生存し続けるだろう。

 生きていても大凡世のため人のため役に立つ人間ではないが、それを承知の上で多くの他人が骨身を惜しまず献身的に努力してくれている。さて自分はその努力に見合う人間だろうかとつい懐疑的になるが、人間とは厄介で因果な動物らしい。他の動物であればとうに寿命が尽きて消えている命が、人智の助けで生き長らえている。

 否応なく自分の命と向き合い生きている人間も居れば、生きているという感覚すらなく生きている健康人もいる。そのどちらが幸せで、どちらが不幸せかは一概に決められない。人生は人それぞれだから他人のことをどうこう批判するつもりはないが、自分のことで言えば兎も角も生きているのでそれに見合う「落とし前」をつけねばならない。

 簡単に言えばそれだけのことだが、これがどっこい言葉ほどに簡単ではない。取り敢えず生きている以上は少しでも楽しくありたいと願うので、あれこれと色々なことに興味や関心を持つ。どれもが一様に楽しいわけではないが、自分で楽しいと感じられることや好きなことは取り敢えず楽しそうに思えるから、多少の骨折りを承知の上で手を染める。

 物事は須く"見るとやるとでは大違い"で自身の見当違いに改めて気づくのだが、気づいた時には大抵は「後悔先に立たず」と相成る。得てして奈落は見え難いので、見えた時には逃げられなくなっている。かくして苦労の始まりとなるのであるが、嫁さんを貰う時とその後のことを考えれば大方の人は納得できるだろう。

 生きるための職業についても同様で、世襲で親の仕事を受け継いだ人を除けば多くの人が必ずしも自分に見合っていないと感じながら日々を送る仕儀と相成る。世の中を見て他人を見て、孤立しないように周囲に同調して生きる術を会得する。自分の思い通りに意志を貫くのを諦め、取り敢えず生活できることを優先する。

 生きるために生活するのか、生活のために生きるのか、答えが出ないままにまずは生きることを優先して日を送るうちに次第にスモークダウンして仕舞う。遠近の光景が見えているのに見えない自己矛盾を抱えたまま時代を漂流して、与えられた自分の時間を費やして終末が近づくのである。数多くの慚愧の念と向き合いながら、猶も決着に戸惑う。

 生きている「落とし前」は、若しかしたら生きていることそのものではないかと思い始めて、残り少ない時間と向き合うのである。華やかなショパンが終わり、思索に満ちたブラームスの1音1音に我が身の思いの丈を想うのだ。幸せの色が微かに見え始めた日々の中で、如何にその微かな色を色濃く出来るかを模索する。

 待ってはくれない非情な時間を恨むことなく、静かに激しく葛藤しながらカウント・ダウンを待つのである。人生のゴールはもう目の前に迫っている。それでも時間は淡々と流れるように過ぎてゆく。何も変わらず、何事もないように、不思議なように至って静かである。シューベルトの感傷が優しく響くのみである。