獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

小田和正を聴いた

 NHK-BSを録画して「小田和正18~19ツアー」を視聴した。久しぶりに眼にし、耳にした小田和正は、やはり小田和正だった。オフコース時代から変わらぬ彼がそこに居た。年輪が加わって白く変わった眉毛と、染めた髪の対比が過ぎ去った年月を物語って、紛れもない小田和正がステージ上にいた。

 埼玉アリーナと思われる巨大会場が、ソロ活動の彼に相応しいかどうかは疑問を拭えないが、その巨大会場を埋め尽くしたファンの熱気は夏の暑さだけではなかったようだ。過去にヒット曲を連発して一躍メジャーになったアーチストは数多いが、先にテレビで眼にした"さだまさし"のように、単に過去の遺産に取り縋っているだけの例が少なくない。

 だが小田和正は違っていた。四方を取り囲む巨大会場の、客席の中央に置かれたステージ上にあるのはバイオリンとチェロにピアノである。シンセサイザーとギター、ベースは電子楽器だが、アコースティック・サウンドにこだわった小田和正らしさが滲み出ていた。他のアーチストのツアーやコンサートにつきもののゲストは一切なく、最初から最後まで白いTシャツの小田和正一人である。

 開演して早々に客席に溢れる女性ファンをテレビカメラが写し出した。その多くは決して若くはない中年の領域層である。白髪の男性ファンが混じって、小田和正が歩んできた軌跡を物語っていた。最近のツアーやコンサートには必ずある派手な装飾や演出はなく、会場内のモニターが写し出すのは曲の歌詞のみだ。

 一人ステージに立ってギターを持ち替え、時にソロピアノで弾き語りをする小田和正は、透き通ったハイトーンの歌声が多少衰えたとは言えやはり小田和正だった。古くなった懐かしい彼の曲は、長い年月を経ても何ら変わることなく会場に流れていた。テレビ画面に写し出された中年女性の頬を流れる熱い涙は、類い稀な小田和正の感性そのものだ。

 全ての曲に共通する決して誇張せず飾りのない単調な曲想は、正に小田和正の世界だ。どの曲を聴いても大きな変化はなく単調な繰り返しの連続であっても、繊細に歌う愛は聴く人の心を揺さぶる。なぜ、どうしてと、思わず問い返したくなるほどに小田和正は細やかで優しい。横浜で生まれ育ち東北大で一級建築士になっても、小田和正は歌を手放さなかった。

 特に望まずとも社会的地位が与えられているのに、バンドを解散後も曲作りを続けている。創作活動は決して容易くはない筈だ。苦しみ抜いて眠れぬ夜や、他人と顔を合わせることさえ出来ぬ日があるだろう。それでも小田和正は繊細に愛を歌っている。唯々一筋に愛を歌っている。余人が立ち入れない世界を構築している。聴き手は分かっているのに胸が熱くなり、知らず知らず涙が流れるのである。

 我が家は来年80歳になる老妻が熱烈な小田和正ファンである。オフコース時代初期から聴いていた私が、ソロ活動に移ってから何気なく買ったCD「マイホームタウン」がきっかけで、それ以降の小田和正全アルバムを買って所持している。現在もなおiPodで毎日のように聴いている。老夫婦が揃ってファンなのである。

 商業主義が大手を振ってまかり通るこの時代に、端正に、ひたすら端正に音楽と向き合う小田和正は貴重だ。彼の前に存在するのは紛れもない音楽だ。売るために目立とうという打算や、こうすれば売れるという策略を排するのが容易ではない時代に、シンプルに極めてシンプルに自身の音楽世界と向き合っている。

 小田和正の世界に激しい情念はない。傷つきやすい青春の瑞々しい感傷だ。誰しもが通り過ぎた淡く儚い時代の想いである。それも他人型ではない、常に自分型である。自分の心にある想いや失ってしまった現実との狭間で、揺れ動く心そのものだ。壊れやすいが故に脆く、脆いが故に傷つく青春そのものでもある。

 これから先も小田和正小田和正だろう。環境がどう変わり、時代がどう変わろうと、年老いていく自分と向き合いながら、変わらぬ青春の想いを歌い続けるだろう。それが小田和正らしさだと確信した楽しいひとときだった。