獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

歌の後先

 私は演歌と呼ばれる歌が性に合わないらしい。主にテレビで視聴する機会があるが、最近の若い演歌歌手は揃いも揃って、"ど派手"な衣装を身につけて笑顔を振りまている。これが実に"気持ち悪い"のである。もっと言えば生理的嫌悪感を催すのである。

 決して歌そのものが嫌いなわけではない。五木ひろしは興味がないが、吉幾三は好きで彼の歌は聴いている。女性歌手は美空ひばりが他界してから急激に興味を失った。悪いがその他一同という範囲を越える歌手はいない。名前を知ってる女性歌手は八代亜紀くらいだ。

 音楽と言えば口はばったいほど演歌は雑音的要素が多い。音は出てるが凡そ音楽と認め難い類いの楽曲が数多くある。生まれては消えていく泡のように、膨大な歌が歌われないまま消えていく。作詞家と作曲家、それに歌手と、それぞれが分業なので、世情で歓迎されないものは"芥"として忘れ去られる。

 科学文明が時代の花形になるにつれてAIなる化け物まで登場して、人間が担ってきた作業の多くをコンピューターが行う時代になろうとしている。一足早くそれを彷彿とさせる現象が既に出現しているようだ。テレビの歌番組に登場する若手歌手は、男女を問わずみんな歌がうまい。

 私が生理的嫌悪感を催すのは、その「歌のうまさ」である。まるでAIがステージ上で歌っているが如く"お上手"である。誤解を招きそうだが、歌は所詮人間が人間らしく行う人間らしい作業である。譜面通りにキチンと寸分の狂いもなく歌われたとしても、それが果たして聴き手の心を揺さぶるであろうか。

 若手歌手に共通するのはAIの化身のような味気なさだ。左右どちらかの耳から入って、そのままどちらかから抜けていく。心には届かず感情に残るものが何もない、そんな印象の歌が量産されている。コマーシャルベースに攪乱されているマスコミが、業界の利益のために無理に派手に装って大衆に媚びている。

 利益を生む歌が良い歌で、音楽性が問われることは決してない。それゆえに演歌は演歌なのであろう。自分で曲を書き、想いを込めて歌う。お世辞にも上手いと言える歌ではないが、老いた吉幾三が心に響くのは何ゆえだろうか。老いた森進一の"泣き節"が身に沁みるのは何故だろうか。

 どんなに美男美女が続々登場して、表情がない可愛い女の子達が集団で出てきても、そこにあるのは"座興"の類いである。派手な演出が施されれば施されるほど、それが音楽だ、歌だと、世情に"勘違い"を生む以外の何物でもなかろう。曲作りの名手たちが次々他界して、世に言うヒット曲も生まれなくなった。

 記憶に焼き付いてつい口ずさむ歌が減った。豊かで便利な時代だと人は言うがどうも歌の世界は別らしい。派手な賑々しいステージはあっても、感動を誘う音楽番組、歌番組は一向に登場しない。聴くに耐えない歌や、騒がしいばかりの雑音を目や耳にしながら、高齢者はこの世を去らねばならないのだろうか。