獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

吾亦紅(われ-もこう)再び

バラ科多年草。山野に自生し、高さ60~90センチメートル。晩夏、暗紅紫色の小花を球形の花序に密生。果実も同色。若葉は食用、根は止血・収斂しゅうれん剤。漢名、地楡。秋。源氏物語(匂宮)「物げなき―などは」           [広辞苑 第七版]

 秋の季語になっているが地域によって見られる時期が微妙にズレる花と実なので、今も残っている地方があるかも知れない。何故か毎年秋になると思い出す不思議な植物である。春の桜のように派手さもなく、同じ秋の花でもコスモスのようなポピュラーさもない。多くは山里や河原などで見かける程度の、気づかずに通り過ぎてしまう山野草だ。

 この知られない花と実が有名になったのは、数年前に杉本眞人の歌「吾亦紅」によってであろう。白髪頭にサングラス姿でテレビに登場したのでご記憶の方も多いだろう。世に言う歌手とは凡そ違う趣の中年男性であった。それゆえか「売れる歌手」の類いには属さず、世間から忘れられるのも早かったようだ。

 ギター一本を抱えてステージに登場し、だみ声を張り上げて絶叫するように歌い上げる「吾亦紅」は、歌とは何かを忘れかけていた音楽ファンの心に沁み入った。お断りするがここでいう音楽ファンとは、本物の音楽を理解する人たちを指す。例え間違えてもNHKテレビの「うたコン」に行列する人種とは異なる。

 この数年から数十年国内で本物の歌い手にお目に掛かった記憶がない。どれも同じように厚化粧を施して媚びるだけの人たちは次々登場するが、歌と称する外連味(けれんみ)を振りまくだけでいつの間にか消えていく。その種の人たちを歌手と呼ぶのにはかなりの抵抗を感じるので、個人的に音楽とは異種の文化の担い手だと認識している。

 知る人ぞ知る「吾亦紅」の作者杉本眞人は作曲家である。ビックヒットがないので有名ではないが、数多くの既存歌手に楽曲を提供している。独特の音楽センスの持ち主なので、彼の作曲した歌は既存歌手の誰もが歌えるわけではない。そのためその多くが提供された歌手たちとミスマッチを生じている。ゆえにヒット作には恵まれていない。

 名もなき野草を題にした「吾亦紅」は、草花が主役ではない。人生の折り返し点に達した中年男性の人生を歌っている。亡き母と遠のいた故郷への想いが、切々と心に迫る哀愁に満ちた名曲だ。人生の哀歓を知る心ある人たちには忘れ難い一曲だ。時代がどう変わろうと、長く歌い継ぐべき「本物の歌」である。最近はこの種の歌に巡り会わない。

 まるで風のように通り過ぎていくだけの「歌と称する騒音」が量産されている。長生きしてこの種の"騒音"に出会うことが幸せだとは決して思えないが、音楽センスが失われた時代と迎合しようとは努々思わない。せめて本物と偽物の区別くらいは心得て余生を生きたいと願っている。"冥土のみやげ話"は間違えたくないものである。

 音楽や歌に限ったことではないが、現在の「豊かで便利な時代」は社会全体の歯車が必ずしも嚙み合っていないようだ。可笑しげな制度や、妖しげな現象が、当然のことのように世に蔓延している。自分の心に問うて確信を持てることがどれだけあるだろうか。外面に派手な化粧を施した楽曲を歌だと信じる時代だからこそ、「本物」が本物であることを知らねばならないのではないかと思っている。

 本物が忘れられて、"まがい物"の類いが世に喧伝される時代の秋の夜長には、是非「吾亦紅」に耳を傾けたい。暗紅紫色の小花に想いを馳せて、我と我が身に思いを致してみるのも悪くないと思う。「吾亦紅」が心に沁みたら、歌手ではない歌手の杉本眞人の他の歌を聴くのが一興だ。テレビに登場する"歌と称する音楽"とは全く異なる、独特の「歌世界」が聴けるだろう。

 歌って何だろうと、思わず自身の心に問いかけたくなる「歌」こそが、忘れずにいつまでも心に残る「歌」こそが本物だ。上手なだけの歌や綺麗なだけの歌は「歌」ではないと確信している。格好良くなくても、美しくなくても、そこに人間の真実を感じることが出来ればそれが人生だ。その人生こそ「歌」だと思う。

 今年もまた「吾亦紅」の季節が過ぎようとしている。地味で目立たない花はすぐに人々の心から消えるだろう。花が終わり実が落ちても、消えずに残る想いは人それぞれであろう。故郷の旧家は最新のLEDではなく、赤みを帯びた裸電球が灯り続けている。装うことなくそっと温かい。家族の姿は消えても故郷の旧家は変わらずそこに在り続ける。変わらぬ日本人の心象風景である。

 今年の秋彼岸は天候に恵まれなかった。各地の墓地で線香を点けるのに苦労しただろう。季節外れの墓地で一人静かに手を合わせた人も少なくなかっただろう。自分の心に嘘をつかずに素直に向き合えば、必ずや聞こえる歌がある筈だ。それこそが「本物の歌」だと私は信じて止まない。心に響かない歌は「歌」ではないのである。