獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

季節の足音

 暑い暑いとぼやかれていた"夏娘"が足早に立ち去り、いつの間にか"秋美人"の季節になった。ところが近頃は"秋美人"のご機嫌が麗しくないようで、台風やら豪雨災害ばかりに目が向く歓迎されない現象ばかりだ。肝心の"美人さん"が出番を失いかけている印象だ。それでも間もなく「錦秋」のパレードが各地で始まるだろう。

 季節に「足音」があるかとお疑いの御仁も居られよう。確かに季節が巡る足音を実際に聴いた人は居ないだろう。新型コロナウイルスの感染拡大で外出自粛が声高に叫ばれ、人の接触が減った。人間生活の根底が揺らいで経済社会は大きな打撃を受けた。それでも地球上の生物は変わらず営みを続けているし、季節は巡って来る。

 好むと好まざるとに関わりなく季節は巡る。私たちはややもすると自分たち人間だけが地球上に生きていると錯覚しがちだ。コロナ騒動があろうとなかろうと地球の自転は変わらないし、膨大な種類の生物がその地球上で生命をつないでいる。それらの生物は「医療体制の崩壊」と無縁である。

 「経済社会の打撃」も人間社会独自のものだ。私たち人間は長い歴史の中で様々な文明や文化を築いてきた。結果的に自分たちが生み出した科学技術に翻弄されてはいないか。自分たちが作り出した人工音を音だと感じて、自然の音に鈍感になった。耳に聞こえる音が音だと勘違いしては居ないか。目で見る音もあれば、触って感じる音もある。

 例え目が見えなくても、耳が聞こえなくても、暑さや寒さは感じるし、風の音や雨音を感じることが出来る。人間としての感性と五感が健全であれば、あらゆる現象に音があるのを感じられるだろう。春の少年・少女の"恥じらい"や、冬枯れた老爺・老婆の"嘆き"にも、それぞれの表情と音がある。人工の音から離れて耳を澄ませ目を凝らせば、あるがままの自然がそこにある。

 目に見えぬ風にも臭いはあるし、諸々の細やかな音もある。幼心には驚きだった感動がいつの間にか失われて、私たちは誰言うとなく「取り澄ました大人」になった。本来ある無数の営みを見失って、"鈍感"という言葉にも鈍感になった。枯葉や落葉は歌や絵の世界だと認識はしていても、その美や哀しさに気づかなくなった。

 "秋美人"は長居をしない。北風に急かされるように足早に立ち去って行く。あなたの心の花は咲いていますか。咲き誇る花は綺麗だが、枯れて朽ちてゆく花の嘆きを聞いたことがありますか。足元の歩道に舞う落葉のトレモロが聴こえますか。それらの一つ一つが「季節の足音」だと気づかれましたか。