獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

豊かさと便利さの代償

 現代社会は「豊かで便利」であることが当たり前になった。その一方で必ずしもその恩恵に浴さない人々がかなりの数に上る。それでもこの時代に"貧乏"が話題に上ることは稀で、陳腐な政治の場での質問を除けば"親しみやすいテーマ"ではなくなった。この時代を生きる誰もが、改めて意識することなく「豊かで便利」な日常を享受している。

 改めて強調するまでもなく、自由と豊かさは表裏一体で私たちの身近にある。高望みしなければ不自由しない暮らしが簡単に手に入る時代だ。しかし、その豊かさと便利さを手に入れるために、私たち人間はアダムとイブの時代に例えれば「禁断のリンゴ」を囓ってしまったのではないだろうか。

 殆どの人が意識することなく犯している罪があるように感じるのは、死期が間近い高齢者ゆえであろうか。世界はグローバル化した地球上が全てではない。高遠な宇宙の論理があることと、地球上に限っても全ての生き物に共通する自然の法則がある。その全てを知り尽くしたと慢心して人間は驕りの限りを顧みようとしない。

 "地球の温暖化"は早くから指摘されてきた。知り得る限りの科学知識を総動員して考えれば、それが単なる「絵空事」ではなく、実際に起こり得る出来事だと多くの人が受け止めてきた。けれどもそれに対する有効な手立てを講じてきたとは言い難い。それどころか己の利益のために自然破壊を止めることなく続けてきた。

 現在もなお自然破壊は「現在進行形」のままだ。その結果がどうなるかを何となく分かっていながら誰も責任を感じず、率先して破壊行為から撤退する気配すらない。消費者の関心を引くためのポーズは示せても、実効ある結果には一向に結びつかない。みんながやっていることだからと頬被りして、誰もが自分の精ではないと嘯くばかりだ。

 未曾有の大雨と突風が日本列島を直撃している。戦争がない平和な時代に生きても、風水害で命を落とす人たちが後を絶たない。同じく私たち人間が引き起こした自然破壊の代償である。人間が同じ人間同士を殺傷しても、誰も罪を問われず犯罪として認知されることがない。長い地球の歴史に毎年新たな記録が加わって、統計はどこまで伸び続けるのか誰も分からない。

 何かが可笑しくはないだろうか。これほどの大災害が毎年恒例のように繰り返されても、「豊かで便利」な人間社会は何も出来ないのである。ほぼ無作為に茫然自失と傍観するのみである。地球上の万物を私有化してコントロールできると慢心して来たけれど、実際には"張り子の虎の威"を借りてきただけではなかったのか。

 人間社会の出来事は往々実態がないのにあるかの如く装う場面がある。国会での質疑がその代表格だが、"絵に描いた餅"を並べてその真偽を言い争っている。それがこの国の最高立法府なのだから、それに比較すれば学者や学会が唱える論説も同様に罪がないのかも知れないと自分を納得させている。

 人間社会が信じるに足りない宛てにならないものであるとするならば、そこに生きる私たちは一体何を信じて我が身を守れば良いのだろうか。地球は永遠に不滅だとする学説が怪しくなってきた現在、自然界の怒りを鎮める妙薬がないままに水害で流されるのに身を委ねるしか方策がないのであろうか。

 自然の猛威は恐怖度を増すばかりだが、頼みの綱は自分が住む地元の自治体である。私は森田県政の千葉県には何があっても絶対住まない主義だが、地元市町村の首長の優劣は命に直結する。努々おろそかには出来ないので用心が必要だ。派閥の論功行賞と貢献度で決められる政治に多くは期待できない。宛てにならない主義・主張より今日の安全である。

 「豊かで便利」な生活に慣れ親しんだ人間社会は、最早立ち止まることや後退することが出来ないだろう。自然の怒りが頂点に達しようと尚も破壊行為は延々続くだろう。地球温暖化対策のために車の使用や火力発電を直ちに止められるであろうか。森林保護のために樹木の伐採を止めるだろうか。いずれも答えはNOである。

 新型コロナウイルス感染防止のために感染源の商業施設を閉鎖できるか。予防処置として関係する業種の営業を規制できるか。人間社会が慌てふためいている間に、次の新型ウイルスが産声を上げているかも知れないのである。地球上に君臨して憚らない人間だが、地球規模、宇宙規模で見れば小さな存在だ。

 人間社会全体が近視眼に陥って、自分の身の周りや目の前しか見えなくなってはいないか。限られた世界のみを見て己を過信し、慢心してはいないだろうか。大小を問わず地球上に生きる命には共通の摂理がある。共存するための法則がある。他の生物はそれぞれに己の"分"を弁えて生きているのに、私たち人間だけがその"分"を遙かに逸脱している。

 その代償は誰が負うべきかは明白だ。意識していたか否かは別にして、自分が犯した罪は自分が負わねばならない。毎年繰り返される巨大な自然災害を知るにつけ、そんな気がして心が痛む昨今である。