獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

高齢者の関心と無関心

 自分自身がゴール間近い高齢者なので、何事によらず高齢者に関することに目が向く。高齢者は全般に長い人生経験を有するので、いい意味でも悪い意味でも生きることに慣れている。この「慣れ」が実は曲者で、慣れ過ぎて物事に無関心になる向きが多いようである。新鮮な感動を得る感性が惰眠状態になるようだ。

 コロナ・ウイルスの感染問題も、多くの地域で"非常事態宣言"が解除されて一見落ち着いたかに見える。実際に落ち着いたのかどうかは、当事者になって現場に立ち会ってみないと分からないのに、テレビや新聞の報道を鵜呑みにして得心している面々が多い。特に高齢者にその傾向が顕著だ。

 "自称インテリ"を気取っているわけではないと思うが、このコロナ・ウイルスの問題が象徴するように、一見分かっているようで実は分かっていない事象が世に蔓延している。当人達は分かっているつもりでも、問題の核心である熱さや痛みは一切理解していない。あくまでも「分かっているつもり」なのである。全てが万事にこの流儀を貫かれるので、物事の本質とは遠い「上滑り社会」を構成する要因になっている。

 「知らぬが仏」という諺ではないが肝心の当人たちにその認識がないので、事は得てして厄介になる。関心があるつもりで世の中を見ていて、その実は形式的な表面だけをなぞっているだけであることに気づけば、世の中は少なからず変わるのに気づいていない。「そんなものさ」と物わかり良く物事を受け流して、自分は"蚊帳の外"に身を置いている。

 何事も自ら関心を持って見聞きし、どうであるのかを考えなければ本質には近づけない。関心を持つことで感性が覚醒する。感性が目覚めれば色々なことを自然に気づくようになる。少しでも物事の本質に近づきたいとの欲求が生まれ、手足を動かして行動することにつながる。より根源的で、より本質的な日常生活が得られる。

 決して難しいことではないのに、何故か多くの高齢者が目を向けて気づこうとしない。生きることに慣れ過ぎて無関心になれば、それだけ人間生活からも、社会生活からも遠のいて疎外されてしまうのに、不思議に正面から向き合おうとしない。決まって口から出る言葉が「この年になって何を今更…」である。

 本当は「この年になったからこそ余計に関心を持たなければ」なのだが、どうも逆向きの御仁が圧倒的多数派のようだ。同類の高齢者の一人として誠に残念であり、かつ哀しくなる。残り少ない人生だからこそ、目の前を過ぎていく時間の重みや価値が分かる筈で、1分1秒たりとも粗末には出来ない筈である。他人事ではない自分の人生なのだから。

 日本人としてどう日本人社会と向き合うか、国際社会のどこに立ち位置を見い出すか、それらの一見関係ないように思える事柄と向かい合わねば、縦横に広がる地域社会や家庭内の問題の本質が見えない。果ては自分自身さえ見失って分からなくなる。目は見えているのに何も見えず、耳は聞こえているのに何も響かない悲劇に陥る。

 もっと厄介なのは、そんな自分の悲劇的現象にさえ気づかなくなっていることである。それは単なる無関心では済まされない人間社会の悲劇そのものであり、その原初を自分が担っているとの自覚が関心を持つ第一歩であろう。ちょっとした関心や無関心が、自分自身や家庭内に留まらず国家や世界を動かしているのだから。