獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

生きる潮目

 連日のコロナ・ウイルス関連の報道に接していると、何やら突然異次元の世界へ連れてこられたような錯覚を覚える。これが夢や妄想の世界での出来事ではなく、リアルタイムの現実で世界を覆っているのだから実に厄介だ。漫才や落語のように"オチ"がついて終わりにはならない。どんなに奇っ怪であろうと、笑い飛ばして済む話ではないのだ。

 世の高齢者はいま長生きすることの是非を考えさせられている。少し前まではお世辞と分かっていても周囲から「おめでとう」と言われてきた。それが今必ずしも目出度くないばかりか、事実上の「厄介者」が既定の事実として積み上がっている。大概の高齢者は何らかの持病をもつ。治癒が困難と診断されている高齢者が少なくない。

 急速に拡散するコロナ・ウイルスの感染者が続出して、その治療のために医療機関が非常態勢になっている。ベッド数を確保するため軽症の高齢入院患者を退院させ、コロナの重症患者を受け入れざるを得なくなっている。限りある人工呼吸器などを効率よく運用しないと今の事態に対処できないのだ。

 これらの事実は連日のニュースを通じて殆どの国民が知っている。公共という概念に基づいて、そうせざるを得ない事情とその処置に疑念を抱く国民は居ないだろう。一般論としてその議論が間違っているとは到底思わない。けれどもである。私情で恐縮だが肺癌が再発してステージ4段階の高齢者は、コロナに感染しなくても慢性肺炎で呼吸が苦しい。

 少し動くだけで息切れして「ハァーハァー」するのである。続くと呼吸困難になるので、否応なしに立ち止まり休憩しなければいけない。意地を張り通して酸素吸入を拒んではいるが、少しでも異常が起きれば即座に人工呼吸器のお世話にならざるを得ないのである。高齢と低下した体力で再度の肺癌手術は困難で、現代医学を以てしても極めて生存確率が低い高齢肺癌患者である。

 幸い今すぐ緊急を要する事態ではないが、いつ入院の必要性が発生するかは見通せない。しかし現状のコロナ・ウイルスの社会的脅威を目の当たりにして、私的な個人事情のみで入院が可能だろうか。自分なりにシミュレーションしてみているが、どの角度から検討しても答えは常に「ノー」である。

 具体的に症状が出て専門医の診断を仰いだとしても、多分結論は変わらないだろう。好むと好まざるとに関わらず、僅かばかりの生存確率のための医学的治療は断念せざるを得ないのだ。冷静に現状を認識すればするほど、事実上の「死亡宣告」を受けていると結論づけねばならない。

 生きながらにして目の前に「死」が訪れるのは不思議な感覚である。今初めて体験することではなく、肺癌と膵臓癌の連続手術の際に一度体験した。自分の命が自分のものではなくて、目の前にあるのだがどこか遠くに存在するような浮遊感があった。懸命に手を伸ばしても届かない距離にあって、醒めた眼で自分自身を見つめている感じがあった。

 不思議だが世間で言われる「死への恐れ」はない。一個の命が生き長らえようが、死に絶えようが、格別家族や社会に迷惑を及ぼすわけではない。生きとし生けるものの宿命で終局を迎えるだけの話だ。そう思えば現状のコロナ・ウイルスの脅威も騒動も、自分から遠ざかって行く気がする。

 生きることが当たり前で、生きていることが当然と思われている皆さんとは、多分少し距離がありそうだが、それでも曲がりなりにしっかり生きている。生きることの潮目が大きく変わっても、相変わらず食べるものはどれもが美味しいし、毎日何もせずとも「今日」という新しい日が訪れる。これほどの幸せが他にあろうかと思えるくらい充実して生きている。

 自分の命に責任を持つとは良く耳にする言葉だ。だけど実際に自分の命に責任を持てた人が果たして何人いたであろうか。言うは易く、行うは難い自分の命のやりとりだが、その命運の善し悪しを他人や社会の精にしても決して救われない。昨今のコロナ・ウイルス騒動を目にする度に、自分の命が疎外されている現実を実感している。

 長生きした挙げ句の果てと思えば腹立たしくもなるが、人の世の巡り合わせが悪かったと諦めざるを得ないだろう。高齢者が世に甘える時代は終息したことを自覚し、今こそ「自己責任」に回帰すべき好機と思う。生きているのは他人のためではなく、すべてが自分自身に回帰する。コロナ・ウイルスにかこつけて、「生きる潮目」を見失ってはいけないように思う。