獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「当たり前」の習性

 人は人なるが故に厄介な生き物だ。「普通」とか「当たり前」という基準と感覚が一人一人異なる。生まれ育った環境の違いが最大原因として考えられるが、同じ家庭で同じ親から生まれた兄弟・姉妹でも違うから不思議である。他人となればすべてが違うのだから、同じ基準と感覚を持つ人などまず居ない。

 ところが面白いことに「錯覚」や「思い込み」などの便利なツールが用意されてあって、それによって人それぞれに「自分と同じだ」と錯覚して思い込む。言うなれば「誤解」の類いなのだが、だからといってそれをいちいち検索して確証を求めたりはしない。思い込むことで疑念は払拭されてハッピーな気分を手に入れ、人間関係が構築されて行く。

 対人関係のみに留まらず、社会のシステム全体が錯覚と思い込みを前提に築かれている。だから一旦何かに不信を感じれば、システムそのものとそれに関わる人間が怪しく見えて、そう思えてくる。民主主義という定義と、その定義から大きく外れているそれを構成する立法・司法・行政などに不審の目が向くのである。

「錯覚」や「思い込み」で成り立っている制度は、そこに関わる人間たちの資質や現実の事象が、定義とは程遠いものであるのに気づくだろう。だが何故かそう気づいても、その原因究明まで進むケースは皆無に近い。真相を明らかにすれば、民主主義の最終責任が有権者である国民にあることが白日の下に曝されて、自分に還って来るからである。

 責任の所在を明らかにしない「錯覚」や「思い込み」は、公私の「私」の部分でも数多くある。人それぞれの家庭を振り返れば、数限りない「錯覚」や「思い込み」で生きていることに思い当たるだろう。人間関係の原初である夫婦や親子関係、友人・知人との関係から職場環境に到るまで、その「錯覚」や「思い込み」なしには成立しないものばかりだ。

 それでも多くの人は自分自身の立ち位置に疑問を抱かず、日々の暮らしに向き合っている。良きにつけ悪しきにつけ、それが「普通」で「当たり前」だと信じて疑わない。多くの他人がそうしているからと自分を納得させて生活している。本当は自分の幸運が他人の不運の上に成り立っているとは、薄々気づいていても認めたくないのである。

 本心では他人を犠牲にしても自分や家族の幸せを得たいのに、それを偽装して詭弁や笑顔で誤魔化して"良識"を装うのである。そのどれもに「普通」で「当たり前」は都合良く利用されている。その時、その場の状況次第で、「普通」で「当たり前」は千変万化する。本質的には変わらない筈の人間社会の普遍性が、時代と共に融通性になろうとしている。

 人間どう生きるか。それを考える第一歩が自分自身の「普通」で「当たり前」だ。目に見えないゆえに得体が知れぬが、案外"親しみが持てる"パートナーでもある。一度向き合ってみても決して無駄にはならない。