獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人生の長短

 人間の一生が長いか短いかは軽々に口に出来ない。人それぞれと言えば聞こえが良く耳障りが良いが、誰も自分のことなのに決められない。昨今の高齢化社会ではみんなが当事者で、"部外者面"できる人をまず見掛けない。実際の年齢と無関係にまだまだ生きるであろう人が多いが、俗に未だ死ぬ年齢ではないと目されるのに極めてあっさりと世を去る人もいる。

 日本人は長いこと「人生50年」と言われ、疑うことなく信じてきた歴史がある。官公庁や企業の定年制も大抵は50歳や55歳に決められていて、サラリーマンの人たちはそれを区切りに自らの人生設計を描いていた。高度経済成長期と言われる時代が始まる直前まで、それが大方の日本人の標準的生き方であった。

 現状と比較するとまるで別の時代との観が強いが、現在高齢者となって年金暮らしの人たちの多くにとっては、「つい昨日のような」感慨が残っているだろう。それだけ時代の進化が早いとも言えるし、疑えば「誰かに都合良く」乗せられているとの観もまた否めない。いずれにせよ、良きにつけ悪しきにつけ人間社会に「生きている」ことに変わりない。

 人間誰しもこの世に誕生して何歳まで生きるかを予見できない。仮に物心ついて自分なりの人生を思い遣っても、1+1=2の数式通りの人生設計は無理だろう。どう懸命に努力しても、努力しなくても、自分の思い通りに生きるのは至難の業だ。色々な想定外の事態が積み重なって構成される自分の人生を、好むと好まざるとに関わらず受け入れざるを得ない。

 況してや実年齢を想定するなど、到底及ばざる「夢想」に過ぎないと他人は言うだろう。ならばと開き直って根拠を見つけようとしても、そもそもその根拠自体が曖昧模糊としている。「オレは100歳まで生きる」と宣言してみても、予期せぬ病に見舞われて60歳に到達する前に他界するかも知れない。そうなる保証も、そうならない保証も、同じ程度に確信がないのである。

 人はそれぞれに自分の人生だからと言って、自分の思い通りになるとは思っていない。意外なほど"他力本願"で、その癖自力で何とかなると思う"自力本願"とが、絶妙に絡み合って「人生劇場」が組み立てられている。誰しも主役のつもりが脇役にされたり、主役になろうと思わないのに主役にされていたりする。それゆえに悲喜こもごものドラマが生まれ、展開される。

 自分のことなのにシナリオを描けないのが実人生だ。悟ったように"訳知り顔"の御仁だって、過去の体験を紐解いて"それなりの理窟"を述べているに過ぎない。中身を比べてみれば"どっこいどっこい"でそれほどの大差はない。にも関わらず一方は「勝ち組」とされ、もう一方は「負け組」と称されて大差がつく。"モテる男"と"モテない男"も、片方は世の女性たちを思い通りに弄び、もう片方は女性たちと口を利くのもままならない。

 「結果責任」という言葉があるが、好んでその結果を招いたわけではないのに、時には過剰な負担を強いられる場合が少なくない。咄嗟に「理不尽」という言葉が思い浮かぶが、自分の意思と逆方向へ引き込まれる。「運が悪い」と諦めようとするが、その"運"の実態は確かめようがない。好まずに得られた結果人生だから、当人には矢鱈に長く感じる。

 仮に苦痛を伴う人生であったにしても、「生きる」権利は憲法で保障されているが、「死ぬ」権利の保証はない。「生きる」場合は医学ばかりでなく家族など多くの人が、頼んでも頼んでなくても手助けしてくれる。但し「死ぬ」場合は誰も応援してはくれない。善し悪しはともかく「自力」で「自己責任」で、すべての行為を行わねばならない。

 人生を本意でも不本意でも「長く」するのは比較的容易だが、「短く」するのは言うほどに簡単ではない。人間生まれ出る親や環境・時代を選ぶことは出来ないが、それでも取り敢えずは「生きねばならない」。生きる権利が保障されるのと同様に、生きる義務を負わされて人間世界に生きている。

 自分の意思とは別に生まれ出た人間社会だが、「生きる義務」を自覚している人がどれほど居られようか。私たちを取り巻く森羅万象すべてに権利と義務、表と裏の両面があることを、知っているのに気づかない「不感症」人間が増え続けている。「真理」を見ようとせず、物事の"上っ面"をなぞって知った気になっている。

 「人生50年」の単位は確実に変化したが、ただ無為に生きていると思しき高齢者人口が増え続けて、人間が生きる人間社会のシステムが整っていない。高学歴社会が実現して"知識人"は増えたが、量産された"知識人"は責任の所在が身について居らず、「無責任」が新しい時代のキーワードになった。長らえた人生を有効活用するよりも、刹那刹那を「面白おかしく生きること」に夢中だ。

 長い人生が是か、短い人生が是かは、簡単に決めつけられない。