獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

呑気な年末の呑気な緊急入院

 年末の緊急入院が初めてではない"前科者"だが、今度もまた久しぶりにその再来となった。お世辞にも喜ばしいと言えることではないが、新型コロナウイルス感染拡大が第3波に突入した渦中での緊急入院は異例ずくめである。医者が緊急入院と判断した重症患者でも、病棟へ入る前にはコロナウイルス検査が義務付けられる。車椅子や搬送ベットで運ばれた患者も等しく、新患同様である。

 病棟へ通じる裏口に用意されたビニールテントへ押し込められて、テレビでお馴染みの検体採取が行われる。それ以降は付き添い家族とも面会が許されず、約40分余の時間を寒いビニールテントで検査結果を待たねばならない。「陰性」との検査結果が出て始めて病棟への入室が許可される。付き添い家族へ預けた所持品も受け取りが許可されず、改めてウイルス検査を経て病室へ届けられる仕組みである。

 事前の通告が何もないので何が何やらさっぱり判らず、戸惑うことの連続で「着のみ着たまま」の緊急入院と相成った。突然の緊急入院ゆえ家族へ伝えることや依頼することなどが少なからずあるのだが、面会禁止でそれらはいずれも認められなかった。名実ともに一般社会から隔離される扱いになる。一歩病棟へ入ると家族であっても面会は一切認められず、電話での会話のみになる。連日テレビ報道で伝えられる「新型コロナウイルス感染拡大第3波」の威力を、否応なく実感させられた。

 病状そのものは肺癌と膵臓癌手術を受け、その他十数種の合併症や持病を有する「肺癌再発重症患者」である。手術を受けた大学病院で「生きているのが奇蹟」と言われた曰く付きの重病人だ。自ら治療を拒み、"現状維持"を最優先している一筋縄でない患者なので、がん細胞のご機嫌次第で毎日の体調が激変する。当の本人は慣れているが、大学病院から転院して馴染みが浅い現在の「訪問診療医」は、実際の激変度を知らない。

 たまたま最悪体調日に来合わせて、直ちに「緊急入院」との判断に相成った。体調が安定している時はごく普通に生活して不自然さが感じられないようだが、それが本人の想像を絶する努力の賜であるのを知らない故に、常識的な医療判断が下された結果である。医師としての好意的判断なので文句はないが、この程度の事態で「緊急入院」が必要であれば常時入院していなければならないのである。

 体力が限界値ギリギリで全身麻酔の使用が無理と判断されているので、事実上行える医療行為は限られて患者本人がそれを認識している。ゆえに治療や処置は何もない奇妙な「緊急入院」になった。"奇妙な患者"を自認しているので対応する医師や看護師に戸惑いがあり、事実上医療行為なき入院生活を余儀なくされた。コロナ禍中での誠に呑気な顛末と相成ったのである。注射一本、点滴一本なしの2週間を病院で過ごす羽目となった。

 私自身の入院次第は以上の如くだが、周囲を見渡して驚いた。私が案内された4人部屋ばかりでなく、病棟内のすべての病室がオール老人である。自立歩行できるのは私一人で、室外のトイレへ歩く姿を他の病室の患者が食い入るように見詰めるのである。恐らく他の患者の誰よりも重症だと思われる病状の割には、すべての行為を看護師や介護士の手助けを受けずに自分で行うのが「奇妙で不思議」らしい。

 普通のことを普通に、当たり前のことを当たり前に行うこと自体が異質視される医療機関という空間では、「非常」と「正常」が逆転するようだ。何らの生産性に連なる行為もなく食事をして、昼夜の別なく豪放な"いびき"をまき散らして寝入るのが「正常」であって、人間としての品性や尊厳に拘るのは異質で「非常」に見えるらしい。入院当日から異なる空気感と違和感が強かったが、日を増す毎にそれは「異質感」となって私を支配した。

 "超高齢化社会"という現下の現実を直視すれば宜なるかなとの感慨がよぎるが、その現実が凝縮されて目の前にあった。四方八方どちらを向いても"老醜"のオンパレードで、自分もその一人であることを忘れて思わず目を背けたくなった。「老人医療」「見守り医療」「訪問診療」などの言葉が世に溢れているが、長寿社会の副産物「認知症」と向き合う高齢者を専門に受け入れる病院という名の「老人施設」で、図らずも2週間を過ごしたのである。

 更に驚いたのは退院後で、患者の私が提案した腹部CT検査の要望に対する担当医師の返答である。高齢で再手術が困難な患者が、自ら選択した「現状維持」の治療方針に逆行する検査要望は無益であるとの判断だ。実際に治療方法がない末期の患者であっても、最新の病状を知る権利は医療倫理で保障されているはずで、3ヶ月毎に定期検診を欠かさなかった大学病院とは全く異なる見解が返ってきた。

 予期せぬ「緊急入院」で実際に目にした病室の様子と、私の検査要望に対する担当医師の返答を重ね合わせると、常識的医学上の倫理観と異なる現実が否応なく見えた。世間体が良い「訪問診療」の実態が垣間見えたのである。時代の要請を受けて誕生した「訪問診療」は、表向き重症化や高齢化で通院が困難になった患者を医師が訪問して診察する仕組みである。しかし実際に行われているのは薬の処方箋を発行するのみで、重要な筈の検査や処置は殆ど行われない。

 私のように薬の処方や検査の必要性、治療内容まで患者が立ち入るのは多分「異例中の異例」だと認識しているが、それなりの根拠と裏付けを得るために並々ならぬ努力を払って来た。友人に依頼して海外の著名大学が発表した論文調査もしている。口幅ったい物言いをすれば月並みな"へぼ医師"以上に調査・研究しているとの自負がある。お世話になった大学病院ではその前提が評価されて、各科の主治医と公私の別ない人間的信頼関係が築かれた。その上で得られたのが「現状維持」の治療方針である。

 多分知見や認識度で他の患者と大きく異なるだろう。一概に比較するつもりは毛頭ないが、人間の生命をどう認識するかは医学そのものの根本である。何らの治療も検査も必要でないなら何のための診察なのかを問わねばならない。例え如何なる病状であろうとそれを検査・確認して、どう手立てを講じるかが医療である筈で、「検査して症状の変化が見られたとしても、その時は終末なので検査しても意味がない」とする医師の言葉は凡そ認め難い。

 半年間一度も行われない検査に痺れを切らして患者側から要望したのが、医師法に定める医師の主権を侵す行為とでも言うのであろうか。その診察日は生憎体調が優れず、会話のやりとりに疲労感が否めなかったので、それ以上踏み込んだ議論は遠慮したが後味が良かったとは到底言えない。悪意で解釈すれば、「訪問診療」は実際には何もしなくても多額の診療報酬が保険機関から支払われる。事実上の「見守り」に徹すれば、様々な診療科の専門医を配置することなく、内科医だけで事足りるのである。

 ここで事業性を云々するのは本意ではないので止めにするが、時代の進化で医療も様変わりを余儀なくされているようだ。皮肉を込めて言えば「病気でない元気な高齢者」が「商品」になっている趣を否定できない。爛熟した資本主義の市場経済は「終末医療」という名の"新商品"を産み出して、尚も貪欲に「利益追求」の手を緩めないらしい。今のご時世は翼々考えて生きねば、誰のために、何のために生きているのかが怪しくなる。

 コロナ禍の真っ只中で、税金を使って補助するから"大いに遊びましょう"と政府が奨励して、結果的に爆発的コロナウイルスの感染拡大"第三波"を招く時代である。誰が誰のために何をしようとしているのかが良く見えない。メガネやコンタクトレンズを新調しても、多分視界が劇的に改善されることはないようだ。業者の利益に奉仕するのみだろう。本当は大変な情況で呑気になどして居られないのだが、その大変さ自体が"ピンぼけ"で本質が理解されてるとは思えないので、矢張り「呑気」と思わざるを得ない。

 そんな「呑気な年末の呑気な緊急入院」であった。