獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

増える「喪中欠礼」減る「年賀状」

 師走12月になって、暇な高齢者はそろそろ年賀状の用意を始める季節だ。「年賀状発売中」の赤い幟が風にはためいては居るが、何故か今年はその気になれない。例によって今年も「喪中欠礼」の葉書が増えた。比例して購入する「年賀はがき」の枚数が減る。否応なく"寄る年波"を実感する嫌な季節でもある。

 年賀状の言葉は例外なく新年を言祝ぐものばかりだ。新しい1年のスタートに当り、お互いの健康を祈念する。けれども後期高齢者世代は正真正銘の健康人が殆ど居ない。皆それぞれにどこかに支障を来し、不都合を我慢して生きている。本当を言えばとても目出度い気分になれないのが本音である。

 それでも精一杯無理をして目出度い言葉を連ね、見た目が綺麗な華やいだ賀状を用意する。若い時分には意識することがなかった文面や絵柄も、年齢を重ねる毎に派手な趣に変化する。「まだ生きて居るぞ」と生死報告なのだが、受け取った相手もしっかり忘れない几帳面さを見せる。若い時分はかなりいい加減だった奴も、老後の年賀状は別の趣だ。

 実際に会う機会があれば判ると思うが、足腰が弱って殆ど動けない奴も、呂律が怪しくなって満足にしゃべれない奴も、不思議に年賀状だけは元気に見える。元気そうで良かったなどと油断すると、翌月早々に"死亡通知"が届いたりする。そんな独特な高齢者の歳末だが、自分の"死亡通知"を用意せずに済んだだけラッキーだ。相手も多分そう思うだろう。

 高齢者の年末・年始は色々だが、1年ぶりに年賀状を受け取って声を聴きたいと思っても、お互い難聴で電話が使えない。手紙やはがきを書こうにも手が震えて用を為さない。勢いスマホやパソコンに頼らざるを得ないのだが、中には視力障害で文字の判読が容易でない奴も居る。私もその視聴覚障害者の仲間入りして久しいが、まだ何とか自分で用意している。連れ合いや子供が用意したものよりは、"多少ましだ"と自讃している。

 当人は生きているだけで、何らの労も要していない類いの定例賀状が年々増えるが、喪中の知らせよりは余程いい。こちらも生きているだけなので他人をとやかくは言えないのだが、一応の消息を短く添えたオリジナル賀状を用意するのが恒例だ。近年は健康状態の説明を省いてスナップ写真を入れている。夫婦共に画像になると病人気配が消えて元気に見えるから面白い。それがせめてもの祝意と心得ている。年明けは果たして何枚の年賀状が届くだろうか。