獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

老々また楽しからずや

 長閑である。高齢者夫婦の日常は好むと好まざるとに関わらず、間が抜けて長閑である。当人たちにその意識は皆目ないのだが、当事者意識から離れて他人目線で眺めればいたって長閑である。やることなすことがスローモーで、立ち居振る舞いのすべてがヨチヨチと覚束ない。だけどそれが自分の責任だとはお互いに思わないので、それぞれに相手の精だと勝手に決めつけている。

 自分なりにキチンとやっているつもりでも、その結果は悲惨にやや近い。閉めたつもりのドアが開いていて、消したつもりのテレビや照明が点いている。時にはトイレを流し忘れたり、洗面所のお湯が出しっ放しなどが普通の生活になっている。電気代やガス代が幾ら支払われているのかなど顧みないので、良くも悪くも"使いっ放し"だ。クレジットカードで自動決済されている現代生活は、誠に便利で都合良い。

 年金が振り込まれる口座からクレジット料金が引き落とされるので、日常の買い物もカード払いで済ませている。その都度面倒な残高確認などせぬので、現在我が家にどれだけの資産があるのか全く判らない。幸い預金不足になったことはないので余計関心がなく、数ヶ月、ひどい時は1年以上銀行口座の記帳をしない。高齢者所帯は高額品の買い物がないので、放っておいてもこの生活が成り立っているから不思議である。

 世の中の大凡には殆ど関心がないが、食欲だけはしっかりあってお互い好きなものには目がない。とは言っても格別贅沢趣味はないので、ラーメンやたこ焼きで十分満足する。長年連れ添っているので、お互いの好き嫌いを熟知している。自分が好きなものを食べる際は、連れ合いにも好きなものを用意する。取り立てて配慮などという立派なものではないが、だから喧嘩になることがなく、その精で良くも悪くも50年以上長持ちしている。

 特に夫婦仲が良いわけではなく、お互いに加齢による難聴があるので、どちらともなく「言ったつもりが聞こえていない」現象が多発する。老々の常で万事がスローモーなので、すぐには気づかず数日して認識の"ズレ"が発覚する。些細な口喧嘩は毎度のことで、それさえも決定打の一言が聞こえたり、聞こえなかったりするので、真っ当な喧嘩になり得ない。お互いに言い分を口走るだけで"お仕舞い"になる。

 不幸中の幸いはお互い学生時分から一緒にいるので、大概の好みが似通っている。その精で特別気遣いしなくても、"何となく快適"さを保つことが出来る。善し悪しを別にしてお互いに相手が不在の日常を経験していないので、連れ合いが居なくなると考えたことがない。多分その時のショックは想像以上だろうと、お互いに何となく認識している。実際に片方に肺癌が再発して長くないと判っても、アッケラカンとして悲壮感など全くない。

 相変わらず旨いものを目の色を変えて探す日常だ。旨いと舌鼓を打つ度に笑顔になり、他愛ない幸福感に包まれる。高齢者につきものの「物忘れ」が進行度を早め、不都合なことはすぐ忘れる。ついでに不都合でないことも一緒に忘れるので、否応なしに生活が常に新鮮だ。「老け込む」暇など入り込む隙間がない。スローモーならではの快適さと不便さが同居して、最後は「笑い」のオチがつく長閑な毎日だ。

 「幸せ」というのは決して大袈裟なことではなく、こんなどこにでもある「当たり前」を言うのかも知れないと、長閑な老々の日々で噛み締めている。