獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

広い空の下に

 世の中に妙なことや白々しい嘘が蔓延している。「国民の命と暮らしを守る」とする政府が、その言葉とは裏腹に「Go Toキャンペーン」を中止しない。危機的状況に追い込まれている観光業や飲食店などに配慮する余り、肝心の国民の命が"野ざらし"状態だ。経済を再生すると言葉は立派だが、その割に菅総理や関係大臣の表情に使命感が感じられない。運悪くその場に居合わせたとの観が否めない。

 コロナ禍で経済が失速して危機的状況ならば、何ゆえ国権の最高意思決定機関に関わる者が呑気に選挙違反の裁判などやっているのか。有罪がほぼ確定した段階で直ちに失職追放すべきではないか。この程度の"糞議員"を排出した責任に連座して、国会と政府は報酬額の減額返上をすべきだろう。"我関せず"と涼しい顔をしていられる「無神経」が、この種の犯罪が後を絶たない温床になっている。

 コロナ禍で経営が立ちゆかない業界を国家が救済するならば、業界団体や関係団体を持たない弱者や交通事故被害者は誰が補償するのか。予期せぬ災害はコロナウイルスだけではない。予期せぬ時に見舞われる予期せぬ厄害は、予期できぬゆえ備えようがない。個人レベルで対処できるのは決まって資産豊かな「強者」で、その豊かな資産が補償の対象になる。

 いつ如何なる場合も正真正銘困窮している国民は大抵対象外だ。心底困り果てている貧困層が救われることは滅多にない。一口に「国民」と言っても、現実がそのまま反映されることはまずない。政府が言う国民とは、選挙の際に確実に自公与党へ投票してくれる層だ。業界団体のように直接政治資金の提供はないが、「目に見えぬ暗黙の諒解層」だ。マスコミが好んで使う言葉で言えば「自民党支持層」「公明党支持層」になる。

 それ以外の国民は政府が言う「国民」の範疇にはない。"その他諸々"として、ついでに補償処理されているに過ぎない。「我田引水」が誰憚ることなく大手を振って罷り通るこの時代に、万民に奉仕するイデオロギーは"金の草鞋を履いて"探しても見当たらない。「仮の民主主義」に依存して満足感を得たつもりになっている現代では、政治が目を向けるのは利害に直結する業界団体と相場が決まっている。

 都合が良い時に都合良く物事を解釈するのは各自の勝手だが、国家の信頼度は「非常時」にこそ証明される。右往左往して騒ぎ立てるのは幼稚園児や小学生の訓練で十分だ。人並み外れた"特権だらけの国会議員"が、それと同様の"ドタバタ"を演じるのは所詮「笑劇場」である。予期せぬ時に見舞われる予期せぬ災害を悪用して、巨大な利益を得て私腹を肥やす"悪徳政治家"は五万と居て、皆等しく"涼しい顔"をしている。

 この広い空の下には種々雑多な人間が、種々雑多な思いを抱いて生きている。災難とは誰の精でもなく突然現れる災害だ。個人の災難は多くが「自己責任」として見逃される。否応なしに必死に努力するより手がない。それで及ばざる時は潔く諦めざるを得ないのが実状だ。自分の都合通りに立ちゆかないからと嘆いても、推して手助けする人は稀だろう。それが業界として群れて団体化すれば一転するらしい。

 現在のコロナ禍による業界救済は"何か"がピンぼけの印象が強い。懸命の生き残り努力をする者も、ただ呆然と救済策に縋る者も、等しく"濡れ手に粟"の恩恵が及ぶ。敢えて悪口を言えば選挙時の利益誘導策か、あからさまな現金バラマキに相当する。業界人も、業界外の人も等しく国民である筈で、一方のみを優遇するのは公平の原則に沿わない。明らかな利益誘導を超えた選挙対策と言われても、返す言葉に窮するだろう。

 常に経済が成長せねばならない宿命を負う市場経済を、このコロナ禍にに合わせるのは相当の無理がある。「無理が通れば道理が引っ込む」の例え通り、何やら異次元の観が否めない経済政策が罷り通っている。「非常事態」という言葉が宙に浮いて、この広い空の下を彷徨っている。一体誰が世の実相を見極めて、現実に即した施策を展開できるのだろうか。広い空の下は「無責任に騒ぎ立てる輩」に充ち満ちている。