獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

春の足音

 急に暖かい日の訪れである。天候異変だろうが、季節外れだろうが、穏やかで暖かい日は大歓迎である。人の心は元来"浮気性"で、それぞれ自分勝手な理由で善いことや悪いことが入れ替わる。この"世知辛い世"で、よもや寒い日を歓迎する人は居ないだろうと想像するが、それが立派というか、見事というか、実際に居るのである。

 時代は変われば変わるものである。現代は「寒い」「暑い」も立派な「商品」で、それによって膨大な利益を得ている産業が有り、その恩恵に浴する人達が大勢居るようだ。むやみに季節や天候を語れない、何やら肩身の狭い時代になったものだ。それらの事情を踏まえても、やはり明るい日差しと暖かさは何とはなしに嬉しくなる。

 暦の上では…という表現がよく使われるが、現代では見当違いが頻繁に起きる。「大寒」が小春日和だったり、「立春」が震え上がる寒さだったりが、ごく日常的になった。気象予報士の諸君や諸嬢の精ではないのだが、テレビ画面で見る笑顔や説明はどこか"嘘くさい"。見当違いに外れても悪びれず詫びることもないのは、安倍総理の国会答弁同様だ。

 例え季節外れであろうとも、過ごしやすい陽気は高齢者にとって何より有難い。国会で展開される安倍総理や各閣僚の答弁よりも、余程現実味があって思わず笑顔になる。現代の最先端技術を投入した気象学も、高齢者が長年見慣れた野山や空模様を見て占う天気予報には未だ勝っていない。国会同様に言葉だけが虚しく踊っている観を免れない。

 人間世界は色々あっても宇宙は一定の法則で遷移している。ズレはあっても冬の後には春が来る。春の後には夏が訪れるのである。そんなことを考えても、考えなくても、等しく春はやってくる。青い春と書く時代は遠く過ぎ去って最早呼び戻す術がないが、うららかな春の季節は平等に訪れる。待ち遠しいのは子供も大人も、高齢者もまた一緒である。

 日に日に輝きを増す陽光に誘われて、遠出をせずとも近所を歩いてみよう。見慣れた花々が微笑みを湛えて迎えてくれよう。自然に見つめる眼差しが優しくなり、不思議に心が潤うだろう。急がずゆっくり歩を進めれば、寒さで急ぎ足になっていた辺りの景色が改めて目に入るだろう。それだけでも無性に新鮮であることに気づく筈だ。

 大きな幸せは、そんな「小さな小さな」幸せの積み重ねであることを発見できれば、天気だけではない"幸福感"に浸れること請け合いだ。春とはそんな季節である。