獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

終末と向き合う日々

 重病高齢者には「明日」がない。春夏秋冬常に「今日」を生きている。今ある命を確かめながら、その命を撫でさすりながら愛しむ日々である。健康である皆さんには当たり前のことも、ギリギリ踏ん張って"今"を生きている身には何も可もが新鮮である。寝たり起きたりの毎日で外出が困難だが、それでも見るもの聞くものがすべて初対面や初体験の如くに新鮮で感動的なのである。

 ごく当たり前に呼吸し、鼓動が止むことなく続くことが不思議である。再発した肺癌患者はボロボロの壊れた肺の中で活動するがん細胞の動きが判るように感じるし、そのがん細胞が他の場所へ転移しても傍観するしか打つ手がない。限界値を超えて、生きているのが奇跡だと医者に言われているが、それゆえに再手術や抗がん剤治療が出来ない。好むと好まざるとに関わらず、静かに命のタイムリミットを見詰めて過ごしている。

 普通の状態が普通でなくなり、高齢で肺癌と膵臓癌の連続手術を希望して受けた余波は想像以上に大きく、命につながる身体機能の殆どがその影響を受けて変化を余儀なくされた。副作用とか後遺症と呼ばれる類いのもので、術前に予想されたものもあるが大半は術後に実際に体験したものである。直接の関連性が未確認だが、目と耳に障害が出た。病名で言えば「加齢黄斑変性」と「突発性難聴」である。

 視力がぐにゃぐにゃになって、幸い症状が軽い片目で辛うじて生活が出来ている。文字を読むのが難題になり、新聞や本と疎遠になった。パソコンでの文章も入力ミスと誤変換が相次ぎ、普通の人の4倍程度の労力を要する。それでも執拗に文章を書いているのは、それが現在残された唯一の表現手段だからだ。テレビは画面が歪んで見えるし、音声は聞こえない。字幕を利用するもタイムロスに苛々する。

 老妻との二人所帯なので日常の会話が極度に不自由である。老々夫婦はお互いに程度の違いはあっても加齢障害がある。言ったつもりのことが伝わらず、訳が判らぬままにお互いに忘れる。何とか生きていられるのは阿吽の呼吸のみだ。それとなしにお互いを思い遣る相続力の世界である。「いつどんな事態が起きても不思議でない状態」だと医者に告げられている病状だが、老々夫婦の片割れが緊急事態に対処するのは事実上困難だ。

 現実の生活が先行して否応なしに自分の命を見詰めざるを得ないが、不思議なもので格別の感慨もなく落ち着き払って事実をそのまま受け入れている。普通であることが普通でない毎日なので些細なことも新鮮な感動を伴う。鳥や蝶が空を舞うことが不思議であり、青空の高さと夕焼け空の茜雲が感動そのものだ。夕闇の濃さと深さに驚かされ、暑い日と寒い日も不可思議である。

 自分の命が遙か遠くにあるのではなく、すぐ目の前に存在する。手で触れられる近さに在るが故に、親しみと畏敬を感じながら日々愛しんでいる。終末という言葉は決して明るい響きではないと思うが、さりとて無理に暗澹化する必要はない。誰でもに確実に約束された宿命なので、祝福するのは多少無理でも紛れのない人生の一部だ。黄昏時の優しい目線で見詰めればどうだろう。

 明日終わるかも知れない、今日終わるかも知れない、そんな命を実感しながら酸素吸入装置の助けを借りて"今"を生きている。日々難聴で聞こえない耳で音楽に親しみ、歌を聴いている。微かな空気の振動が伝わり、心が熱く燃えるのである。生きているということはそういうことだ。もうすぐ終わる命と向き合い、「日々是好日」とせねばなるまい。