獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人間の三欲

 俗に言う「食欲・性欲・睡眠欲」は人間生活の基本である。そのいずれを欠いても毎日の暮らしが快適にはならない。しかし、だからといってこの三要素がすべて完全に充足されている人は少ないだろう。何故ならば、人間として生きる基本であるこの三要素が全て満たされれば、そもそもの生きている意味が希薄になるからである。

 動物である人間がどう取り繕って格好つけようが、所詮は生存本能に支配されて日々の営みを続けているだけである。有り体に言えばそうなるが、そう言ってしまえば身も蓋もないので、何とか小難しい理屈をつけて体裁を保っている。自然世界には嘘がないが、人間世界は対照的に「嘘だらけ」である。

 何故か知らないが殆どの人が本当のことを本当だと言わない。本当は他人にお構いなしに我武者羅に食い散らかしたいのに、ルールだとかマナーだとか言って乙に取り澄ましている。いい女やいい男に目茶苦茶に犯したり、犯されたいのに、本音を隠して紳士・淑女然と振る舞う。昼夜の別なく眠っていたいのに、無理に社会規範に合わせて寝起きしている。

 何故か不思議に人間世界は"嘘"で成り立っている。おまけに言えば嘘が本当に化けてそれが常識になっている。世に言う「常識」ほど宛てにならないものもない。凡そ根拠に乏しい態度や行動が、誰が決めたのか知らないがいつの間にかルールやマナーになって、疑われることなく社会生活に溶け込み日常化している。

 私達の毎日の生活の中でふと立ち止まって少し考えると、様々な矛盾があることに気づくだろう。多くが自分自身の本音や思いと大きく異なっていたり、時には真逆だったりする。嘘をつくのは良くないと幼少時から教え込まれているのに、誰しもがごく普通であるように装って憚らない。それが人間生活だと妙に納得している。

 動物としての人間の習性は必ずしも美しくはないのに、無理矢理美しく装飾されて派手な色彩を帯びている。それらのどれもは人間が勝手に作り出したもので、それなのに人間は誰も責任を感じず当たり前の顔で日々の暮らしと向き合っている。不思議と言えばこれ以上の不思議はない。人間生活は誠に不可思議で面白く出来ている。

 生きていく上で三欲がバランス良く保たれていれば問題ないが、人生はそれほど好都合ばかりではない。大半の人は三欲のいずれかに傾きがあって、場合によってはそのどれかに異常に執心される人が珍しくない。だからドラマが生まれて、そのドラマに関わり生業とする人達が大勢居る。嘘と欲とを織り交ぜて、得に言われぬ綾を描き出すのである。

 人間が人間としての感動は必ずしも美しくある必要はない。むしろ醜悪とも言えべきドロドロした世界ほど人々の関心を呼び覚ます。俗称すれば「面白い」のである。代表的な一例が宗教分野であろう。どの宗教も三欲のいずれをも否定して、現実にはあり得ない神格化を説いている。

 我が国で圧倒的な存在感を示す仏教について言えば、僅かの施しに甘んじて植物性のタンパク質を摂る以外は認められない。"色即是空"よろしく女色は一切禁じられている。しかし、現実の仏教界でその掟を守っている仏教者は皆無に等しい。贅を尽くして分厚いステーキや高級魚類にかぶりつき、その手で若い女性や年増女性の躰を弄ぶ。

 寺院という人目に触れにくい密室空間で、昼夜の別なく繰り広げられている性の饗宴は想像を絶する狂態だし、贅を尽くした美食で脂ぎった僧侶の数も想像を絶する。若い女性を引き込んだり、連れ合いを亡くした後家さんを脱がせたりして、数珠を片手にあらん限りの性技に走る僧侶を目撃している。

 それでも多くの日本人は仏教の功徳を疑わない。亡くなった家族や近親者の供養は欠かさないし、精一杯の見栄を張って盛大な葬儀で死者を送り出す。葬儀は死者のためでなく、遺る家族のためであることに薄々気づきながら、それでも死者のためだと嘯いて自分を無理に納得させている。

 色欲ついでに言えばこれまた不思議な習慣や風習だと思うが、寺院と檀家の関係がより密な地方では多くの既婚女性が僧侶と性的な関係になっている。亭主は何となく気づいても咎めることはしないようで、半ば公然と昼間から僧侶に抱かれているケースが少なくないのである。

 嘘くさい世の常識は数える暇もないほどあるが、そのどれにも共通するのが人間の本能で、肯定否定の別を問わず人間生活には欠かざる要素だ。三欲あっての人間と言うことが出来るし、決して普通ではないことが普通の衣に包まれている。それを「良し」とするか、それとも「悪」とするかによって、それぞれの人生はかなり味わいが違ったものになるだろう。