獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

お彼岸あれこれ

 秋のお彼岸である。昨今はご存じない方々が多いようなので、蛇足ながら申し添えると20日(金)がお彼岸の入りで、26日(木)がお彼岸開けである。仏教的な要因はさて置いて、日本人の多くはこの極めて仏教的である年中行事を抵抗感なく受け入れている。お盆同様に「国民的年中行事」になっている。

 何故か、どうしてかと、改めて問い返される方は稀であろう。意味などご存じなくても、供花とお線香を用意し、仏様に供える菓子や果物を携えてお墓へ赴くのである。墓石に水を掛け汚れを取り除いて、神妙に手を合わせる。そうすることで亡くなった家族やご先祖様が供養されると信じて疑わないのである。

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように春3月と秋9月のお彼岸は、日本列島の風土や四季と相俟って日本人の暮らしの中に息づいてきた。お盆には新旧の二種類が現存するが、お彼岸には新旧の別がない。春秋それぞれに中日は国民の祝日になっている。その意味で言えば国家的行事とも言えるのである。

 ここまで私たち日本人の暮らしに深く根付いている仏教行事だが、その仏教的意味合いをご存知の方は極めて少数である。高学歴化が言われ、ノーベル賞受賞者が続出する先進国になった現在も、何故か不思議であるが足元の年中行事には無知である。それは一体何を意味しているのであろうか。お線香の香りが漂う中で考えてみるのも、あながち無駄ではないよう思う。

 日本人的とも言える民族的特色として、「形から入る」という傾向がある。長く鎖国が続いて他民族との交流を絶ってきた歴史がそうさせたのか原因はハッキリしないが、いずれにしても原因や由緒よりも形式を優先的に取り込む傾向が顕著だ。読み書きが出来ない農民層は、有力な武士や商人たちの暮らしぶりを真似ることで自分達の生活を築いてきた。

 長く続いたそうした生活習慣が子孫に受け継がれて、取り立ててそれを不自然と感じる層が形成されずに現在に到っている。その間に仏教を取り巻く環境も大きく変わり、利害を伴う業界が育成されて仏教行事を取り込んだ。正論と俗論が同居するが如き現在の状況は、そうして誕生したのである。

 小難しい理屈は"棚上げ"して、兎にも角にも墓前で手を合わせることがお彼岸になった。仏教が生活から遠のいて久しく、宗教的意味合いを失いつつある現在、日常生活で「死者を弔う」風習そのものが消えかけている。辛うじてそれを引き留めているのがお彼岸で、極めて日本的に解釈すれば「風習」こそが大切と理解できる。

 「形から入る」だけのお彼岸であっても、忘れられて草むした人影がない墓地よりは、子や孫の笑顔が見られる墓地が良いのは論を待たない。