獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

日本人の宗教観

 世界に多種ある民族の中で日本人ほど宗教に関して「訳が判らない」国民は珍しいと言われる。歴史的に主流の座を占めてきた仏教は中国渡来で、古くは奈良時代に渡来僧によってもたらされた。仏教についての講義を始める気はないので、ここでのテーマは日本人の宗教観に絞りたい。何ゆえ「訳が判らない」のかを、少しなりと理解するきっかけになれば幸いである。

 実際に信仰しているか否かはかなり怪しいが、表向きは日本人の多くが仏教徒であるとされている。戦後の核家族化以前は大抵の家に必ず神棚と仏壇があった。子供の頃はなぜそうするのかも判らず、祖父母や両親に言われるまま手を合わせてきた記憶がお有りだろう。高度経済成長期に地方から都会へ民族の大移動が始まり、祖父母の居ない家庭が急激に増えた。若い両親と子供だけの家庭が一般化するにつれて、神棚や仏壇も家庭から姿を消したのである。

 それは同時にお墓のない家庭に直結して、突然の不幸などがあった際に自分の家庭の宗旨・宗派が判らない家族の大量生産にもつながった。普段の生活で凡そ縁がない宗教だが、なぜか初詣には大方の人が縁もゆかりもない神社や仏閣にお参りするし、盆暮れの里帰りにはお墓参りする。そこまで几帳面に努めても、殆どの人はその神や仏についての知識を持ち合わせない。何となく周囲がそうしているから、自分だけやらないと格好がつかないというのが理由なのかどうかは、これもまたかなり怪しく定かでない。

 仏教と縁が深かった立場から言うと、泣いても笑っても日本人は宗教について無知だと言わざるを得ない。大半の人が自分の家の宗旨・宗派を聞かれても答えられない。一神教多神教の違いから来る仏教の難解さが影響していると考えられるが、世界の宗教史上類を見ない多数の宗旨・宗派が存在する。仏教のプロである僧侶の皆さんでさえ、正確にその全部の名称を言える方は殆ど居ない。他の宗教の神に相当する仏の数も半端ではなく多い。それぞれの宗旨・宗派によってその解釈や役割が違うので余計にややこしい。

 仏教を専門的に捉えようとすると一朝一夕では語り尽くせない。なのでそれは研究者にお任せして、日本人と仏教についての一般的な側面に触れようと思う。現在の我が国で熱心にかつ本格的に仏教を信仰している中身の多くは、古来の仏教本体ではなく新興宗教と呼ばれる類いの宗教である。昭和時代に誕生し、戦前から戦後の混乱期に拡大した宗教である。大小様々で文字通り色々であるが、特徴的なのはその多くが既成の仏教をベースにしていることで、仏典の解釈にそれぞれの独自性がある。

 既成仏教であるか、新興宗教であるかを問わず、宗教である以上は信仰が根本になければならないが、ここに善し悪しを別とした日本人独特の宗教観がある。率直に言うと信仰という中身がない信仰なのである。一神教が多数派の海外から見れば実に摩訶不思議な宗教ということになる。ここでも各種の議論が必要になるが、敢えてそれを無視して先へ進もう。普段の生活で朝晩仏壇や神棚に手を合わせる習慣が消えて久しいが、同時に多くの日本人から信仰が消えた。信仰がなくても別段生活に不自由はないというのが最大の理由だ。

 日常生活から「信仰」という二文字が消えて、神や仏は年中行事のお祭りやお盆の際にお世話になる程度のお付き合いに変わった。個人の信仰ではなく、集団でワイワイ賑やかに行う"遊び"になったのである。家族に不幸があった時だけ仏教のお世話になる、それが一般化するにつれて違和感を持つ国民は特殊なごく一部になった。「葬式仏教」という呼び名が定着したのもそんな背景からだ。葬儀や法事などに加えて霊園・墓苑が様式化されてビジネスになり、寺院以外の多数の専門業者を誕生させた。

 ともかくも日本人の宗教観は万事がご都合主義である。突発的な緊急時を無事乗り切ればいいとの本音に基づいて組み立てられる。極論すれば葬儀の際に読経する僧侶は何宗の何派であっても取り敢えずは良く、読まれる経典や法話の中身を気に掛ける人はまず居ない。普段の生活に仏教的要素がないので、実際に経典や法話の中身は「訳が判らない」のである。意味など理解しなくても、予定通りの時間に予定通り葬儀や法事が終わることが重要なのだ。

 ここまで申し述べると多くの皆さんが頷かれると思うが、改めて宗教とは何かを問うても即答できる人は限られるだろう。善し悪しはともかくそれが日本人の宗教観なのである。それがいいとか悪いとか言っても、目の前にある現実は多分変わらないだろう。そもそも変える必要があると考える日本人がどの程度いるだろうか。古代仏像や仏画で全国の寺院と密接に関わってきた身から見れば、今や神社・仏閣は独善的にそれぞれ神道や仏教のために存在し、新興宗教新興宗教のために存在していると指摘できる。

 日本人の宗教観そのものが消える日が、そう遠くなく訪れるだろう。宗教や信仰が年中行事や冠婚葬祭のベースであることに思いを致し、個人にとっての宗教とは何かを考えてみるのも満更無意味ではないと思うのは、余計なお世話の老婆心だろうか。