獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

続・日本人の宗教観

 何も日本人社会に限ったことではないが、高度に文明化された現代社会は人間生活全般が形式的である。別項で「日本人の宗教観」について書いたが、宗教側から見る日本人社会は誠に滑稽で、抱腹絶倒の連続である。無知と無理解が生んだユーモアとも言えるし、逆に無知と無理解が生んだ悲劇とも言える。いずれにしても更に滑稽なのは、肝心の"おかしな形式"に当事者が気づいていないことだ。

 近似する類例を上げれば少し前に大流行した「日光猿軍団」などの"猿芸"がある。様々な芸を演じる当の猿は大真面目なのだが、それを見ている私達人間は思わず吹き出してしまう。主客転倒による"気づき"の差が笑いを誘うのだが、猿を笑えない"笑劇"が数多人間社会の足元に転がっている。若しかしたら貴方もその一人で、気づかないまま"笑劇"を演じているのかも知れない。

 別項の「日本人の宗教観」で、多くの日本人は自分の家庭が信仰する仏教の宗旨・宗派を知らないことに触れた。そして葬儀や法事の席で読経する僧侶の宗旨・宗派を問わないことや、実際に読まれる経典や法話の内容を理解できないことにも触れた。それらの現象は本来あってはならないことなのだが、全国各地で類例に事欠かない。まずもってその現実を認識頂かないと話が次へ進まないのである。

 日本人特有の「信仰がない信仰」は仏教独自の複雑さと難解さに由来すると思うが、戦後の家族制度の変化で寺院の「檀家制度」が揺らいでいることにも原因がある。江戸期に徳川幕府によって完成を見たこの「檀家制度」は、現在区役所や市役所、市町村役場で取り扱われている戸籍制度に似た仕組みで、元々は住民管理のための制度であった。強制的に寺院の信者として登録させられ、この台帳を元に各藩は実質的な住民管理を行ってきた経緯がある。

 必ずしも住民自らが選択しなくても、強制的にいずれかの寺院へ登録させられたのが日本人の信仰の始まりと言えるのである。領主が替わったことや寺院の宗旨替えなどで多少の変動はあったが、原則的に移動は認められず先祖代々宗旨・宗派はそのまま受け継がれてきたのである。戦前までは旧民法下で家族制度の厳しい運用が成され、長男が家督を相続すると共に信仰もまた受け継がれた。戦後は本家・分家の区別がなくなったので、特に分家は自由に宗旨・宗派と寺院を選べるようになったのである。

 他の諸国にも見られる宗教の相続であるが、それらの多くが唯一の神への信仰であるのに対して日本人の場合は「信仰」が抜け落ちた形式だけの相続だ。葬儀や法事などの場で何となく慣れ親しんだ形を作れれば良いのである。ご都合主義の日本人社会を象徴しているとも言えるこの生活習慣は、冠婚葬祭のそれぞれに色濃く残っている。一例を挙げればお祭りの神輿である。何を目的に行うかを知らないままみんなで神社へ集まり、仲良く"ワッショイ"している。

 どこかの寺院へ登録せねばならない制度は廃止されて久しいのに、政教分離政策で宗教に無知な日本人が激増した。学校教育で教えられる宗教は凡そ上っ面で、複雑怪奇な仏教を理解するには程遠い。先祖代々という家族制度の実質的な崩壊も手伝って、何が何だか訳が判らない現在の"おかしな形式"と認識が定着する結果になったのである。そうした"訳が判らぬ"国民が激増するのに合わせて、葬祭や墓苑などを扱う業者も激増した。現在はそれらの業者に言われるまま、"おかしな形式"と高額な料金システムを受け入れている。

 仏教の側から現行制度を見てみると、各寺院は檀家の数で「寺格」が定められ、それに基づいて毎年本山へ上納金を納める決まりになっている。家族制度の崩壊と共に消えかけている「檀家制度」にしがみつかざるを得ない事情がある。それゆえに東京で行う葬儀や法事に、東北や九州の寺院の僧侶が出向いてくるのである。近くの寺院へ頼めば用が足りる筈なのに、ご先祖様のお墓がある寺院へ優先して依頼するのはそうした事情からである。

 それらの古いしきたりや習慣が重んじられても、実際は形式のみで本来の信仰が問われることはまずない。現在は都市部を中心に多くの寺院がシステム化されたビジネスに変貌した。益々肝心の信仰は遠のくばかりである。日本人の信仰はまずお墓から始まり、そこで読経してくれる僧侶が必要になり寺院のお世話になった。江戸期までは困った時に神仏にすがる風習が根強くあったが、明治維新以降は大きく様変わりして現在に到っている。

 現代人の何人の人が毎日神仏に手を合わせていようか。実際に神仏に祈って願いが成就すると考える人が決して多数派とは言えない。初詣に有名な神社・仏閣へ出かけるのはあくまで風習であり、形式である。数百万人もの人が訪れるそれらの神社・仏閣の神や仏が、一人一人の個人的願いを叶えてくれるとは誰も思っていない。けれども出かけないと何となく生活の示しがつかないから行くだけのことである。

 日本人の宗教観と言えるのはそれだけである。信仰の中身はどこかへ置き忘れてきたような、あくまで形を大事にしてこだわる日本人の信仰なのである。曖昧さをモットーとする日本文化の混乱期に、いくつかの新興宗教が急速に勢力を伸ばしたのは紛れもない事実だし、そこに既成仏教教団の怠慢という批判も生じた。それらの議論は議論として、基本的に日本人の宗教観と信仰は変わっていない。依然として曖昧模糊としたままである。それを善しとするか否かは貴方次第である。