獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

阿吽の呼吸

 広く世に知られた言葉であり、表現に「阿吽の呼吸」というのがある。言わずと知れた仏教用語で、我が国の文化に古代中国が如何に深く関わっているかを示す一例でもある。仏教者の端くれとしては単なる言葉の一つとして素通りは出来ないので、一応正確な語意を記載せねばなるまい。

 (梵語a-hūṃ 「阿」は口を開いて発する音声で字音の初め、「吽」は口を閉じる時の音声で字音の終り。万物の初めと終りを象徴)
①最初と最後。密教では、「阿」を万物の根源、「吽」を一切が帰着する智徳とする。
②寺院山門の仁王や狛犬こまいぬなどの相。一方は口を開き、他方は口を閉じる。
[広辞苑 第七版]

 とまぁ少々小難しいことになるが、門外漢の皆さんはそこまで深く追求する必要はまず感じないだろう。古代インドで発生した仏教が、有名なシルクロードを経て中国へ伝わったのはご存じの通りで、更に中国を経て我が国に渡来した。意識するしないに関わらず、我が国の文化は文字や生活様式まで古代中国文化の影響が色濃い。

 私達日本人は特に言葉で表現しなくても、意思が伝わることを殊更大切にしてきた。「腹芸」という言葉も同意語として使われるが、島国特有の単一民族国家としての長い伝統になっている。正確には北海道のアイヌ民族や沖縄の琉球民族などが混入しており、必ずしも単一民族とは呼べないのであるが、中国大陸や朝鮮半島出身者などと同じで特別な差別意識はない。

 明治維新の文明開化に始まる欧米化は、敗戦を機に民主主義と一体になって国民の間に急速に広まった。曲がりなりにも我が国に定着した観が強い。元々が男性中心であった封建国家が、日進月歩で平等社会へと舵を切ったのである。和装が洋装に変わり、住む住宅も急速に洋風化した。現代社会の基盤はその上に築かれている。

 「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」というが、至って簡単なことの経緯をご存じない方々が増えて、表面を取り繕って本質を誤魔化そうとする傾向が一段と強まっている。今や言葉は真実を伝えるのではなく、偽装のための便利なグッズと化した観さえある。そんな現代社会で、言葉を介せずしての意思伝達が果たして可能なのであろうか。

 前置きが長くなったが、そこで登場するのが冒頭の「阿吽の呼吸」である。無言の信頼とも言うべき「共通感覚」の上に示される強固な連携は、多分日本人ならではの特殊な感覚であろう。効率と合理性が求められる現代社会で、実際に「阿吽の呼吸」を活用するのは容易ではないだろう。

 しかし、その反面ではそうした時代ゆえに孤高の「阿吽の呼吸」が求められている気がする。お互いが腹を探り合う如き狡猾さと決別して、強固な信頼と責任感を保持できるかに懸かっている。日本人がより日本人らしくあらねば、「阿吽の呼吸」を実現するのは困難だろう。何ゆえ全国の数多い寺院の山門に、阿吽の実像があるのかに思いを致してみてはどうだろう。

 「豊かで便利な時代」は、個人が孤立しがちである。何ゆえ"より豊かで便利な社会"に縁遠いのか、何かが見失われて何かが極度に不足している時代なのか。お互いが瞳を見つめ合っても直視できないのは何故なのか。日本人が日本人らしさから離脱し、人間が人間らしさから離脱した後に、残るものは果たして何であろうか。