獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

田舎蕎麦と小鯛の笹漬け

 善し悪しは兎も角として日本人家庭では正月料理は矢張り「おせち」だろう。見るとはなしに目にしたBSテレビで「和食」のドキュメンタリー番組があった。例年のことながら年末・年始は"アホバカ番組"のオンパレードの趣で、矢鱈にうるさいのでテレビは休眠するのが我が家の恒例である。

 「和食」が世界文化遺産に登録されて、海外で静かな"和食ブーム"を呼んでいるのは知っていたが、番組が紹介していたのは「和食を知らない日本人」であった。世界文化遺産に登録されるまでの経緯が紹介されて、学者や文化人ではない料理人たちのプライドと奮闘振りが綴られ大いに興味と関心を刺激された。

 これまで何度も繰り返し「日本語の危機」を訴えてきた。長い歴史と伝統を持つ日本語が激変していることに無関心な日本人が増えて、遠くない近未来に私達は外国人教師に日本語を習う日が来るであろうと警鐘を鳴らした。それと近似した現象が同じ日本文化の「和食」にも見られることに驚き、改めて日本文化と日本人を考える正月を過ごした。

 食文化も言語も人間生活には欠かせない重要グッズである。片方のみならずその両方が可笑しくなっていることは、日本文化そのものが可笑しくなっている何よりの証明でもある。取り分け食文化は好むと好まざるとに関わらず、人間が生きる根源である。嗜好性は色々あっても、食べずに人生を全うすることは出来ない。

 細長い日本列島は広くはない領土を様々な文化で彩ってきた。交通手段がない古代から超便利な高速輸送網に加えて冷凍保存技術が発達した現代とでは、口にする食材も大きく変わった。グローバル時代の到来で先進国・後進国の別なく世界の食材が食卓に登場している。郷土色と言われたそれぞれの地方文化が失われても、それでもなお未だ数多くの郷土料理が守り伝えられている。

 市場経済の利益万能主義が世界を覆い尽くしている観がある現代だが、それでも日本人には日本人の食文化がある。「和食」は決して特別の料理ではない。長い年月私たちが口にして、血となり肉となっている食事である。それを否定する日本人は居るまい。鎖国から文明開化へと急激に方向転換した明治維新以来、欧米に追随してひたすら模倣に明け暮れた年月が100年を超えた。それでもなお"欧米崇拝"が未だに根強く残る。

 フランス料理と中華料理に代表される食材と調理法は公式になり得ても、「和食」を公式料理と認識する日本人は世界文化遺産に登録されるまでは皆無に近かった。それほどまでに私たち日本人は自前の文化に目を向けて気づこうとしない。100年1日の如く、未だに有名店で提供される欧米料理の高価なステーキを高級だと盲信している。日本人が肉食を始めたのは明治維新以降だ。

 食文化は風土と生活様式の影響を色濃く受ける。その土地に根ざした暮らしと無縁ではない。その土地でしか味わえない妙味こそが"グルメの真骨頂"であると確信する。テレビの料理番組に登場する矢鱈に豪華で、矢鱈に高価な料理を礼賛する評論家や芸能人の類いが何ゆえグルメなのか。怪しい日本語の類型で、ここでもグルメという言葉が誤解・誤用されている。

 数万円を支払わねばならないコース料理が旨いのは当たり前で、それをグルメだと言い囃す輩の感覚を疑う。そんな料理を毎日口にする日本人がどの程度居るというのだろうか。日本人にとって「和食」の醍醐味は日常的で身近であることだ。京都の老舗料亭へ出向かなくても、住居地のどこかしこに「和食」を提供する店は沢山ある。大衆食堂や社食、立ち食い蕎麦店まで無数にある。

 身近な場所で気軽に立ち寄った店で、或いは料理自慢な女房殿の手料理で、忘れ難い妙味に出会う機会は幾らでもある。我が家の正月は5人前の「おせち」を老々夫婦二人で食べ尽くして、七草が過ぎてからは"腹休め期間"になった。出来る限り簡素な食事を心掛けている。今朝の朝食は信州産の田舎蕎麦と、若狭小浜の名産小鯛の笹漬けである。

 蕎麦は値段が安い乾麺で手編みの竹笊に盛り付け、小鯛の笹漬けは酢漬けだ。おろし立ての伊豆産ワサビを効かせれば、言うに言えない絶品の妙味だ。決して高価ではないが、自己流の採点では数万円のステーキに勝る味である。肌黒い田舎蕎麦と透き通るように白い小鯛の笹漬けのトッピングは我が家のオリジナルで、多分他では味わえないだろう。今頃は雪深いであろう信濃路と、降る雪に霞む若狭湾が脳裏に浮かぶ。

 昔々の話になるが、北陸本線の特急列車の車内販売で初めて口にした「小鯛の笹寿司」に感激して、仕事はないのに何度も同じ列車に乗った。目的は「小鯛の笹寿司」弁当を買うためである。漁獲量が少ないため販売される弁当の数が限られ、すぐに売れ切れることもその時に知った。普段は昼近くまで寝ている夜型人間が、駅弁を買うため朝6時に起床して駅弁が売り出されるのを待った。

 「初恋の味」という言葉があるが、以来半世紀以上の時間を経たが私の"初恋"は未だに続いている。他用はなくとも駅弁を買うため北陸路を旅した。まるで初恋の人を訪ねる感激がその都度私の胸に甦った。富山の「鱒寿司」は全国で売られているが、若狭の「小鯛の笹寿司」は現地でしか買えない、私にとって"幻の駅弁"であった。

 グルメという言葉が世に登場し、"売らんがための商魂"と結びついて氾濫した。真意が理解されることよりも、上っ面の格好だけが真似られ濫用されている。ここでもまた日本語同様に「真の豊かさ」が見失われて、チャラチャラした"上滑り文化"を形成している趣がある。更に多くの日本文化の基盤は大丈夫だろうか。

 この信州産の田舎蕎麦と、若狭小浜の名産小鯛の笹漬けが我が家に登場るまでに、どれほど多くの人達が懸命に努力してくれたことだろうと胸が熱くなる。食文化とは、「和食」とは、そんな日本人の暮らしと心が宿っている。「甘い」とか「旨い」とか言って、そこに留まる限りグルメの世界とは遠いと私は思っている。日本語同様に食材や味にも奥深い世界がある。"喉元過ぎても"真の美味しさは余韻として残るのである。