獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

メディアの功罪

 高齢者の正月は暇な時間がたっぷりあるので、普段はご無沙汰しているテレビを見たり、新聞を買ってきて読む機会に恵まれた。普段馴染みがないものに接すると、良くも悪くもその長所と短所が眼についた。今の時代は真に信頼できるものが激減して何が真実なのかが見え難いが、久しぶりに目にしたテレビも新聞も何かしら浮ついている感が否めなかった。

 マスメディアに共通するのはテレビも新聞も同じで、何やら前の時代やその前の時代の"体臭"が色濃く匂う感じがした。現在の元号は「令和」に代わったのに、マスコミ報道は平成の時代や昭和の時代そのもので、時代の進展を感じさせるものは何一つ見当たらなかった。名実ともに「旧態依然」と言わざるを得ない。何も目新しさばかりが取り柄ではないが、テレビのCMと新聞の広告が新時代を喧伝しているのと対照的で、その落差が面白かった。

 テレビも新聞も等しく事あるごとに「報道の自由」を"錦の御旗"にしてきた。視聴者や読者の「知る権利」に応えるのが使命だと、声高に叫んできた。その言葉や姿勢に嘘はないのか今一度問いたいと思う。テレビの公共放送NHKと民放各局を見比べて、その第一印象はいずれも"芸人だらけ"だ。殆どの番組に制作局の意思や意図は見当たらず、多くが番組を取り仕切る"芸人"とスポンサー任せとの印象を拭えなかった。

 報道機関の"顔"であるニュース番組についても、公共放送が看板のNHKは官製発表をそのまま"当たらず障らず"垂れ流しているだけで、独自取材を感じさせる内容は限定されたごく一部のようである。政府与党が不利になる情報は口をつぐんで放送されない。民放各局は目新しさと独自性を強調したいらしく、NHKとは対照的に多少"色づけ"して伝えている。系列新聞社の情報を拾っている分官製情報のNHKより多角的だ。

 民放で強烈に眼につくのがCMの多さで、率直に言わせて貰うと「CMの合間に放送を流す」との印象が否めない。商業放送なのだから当然と言わんばかりの傲慢さが溢れて、正視するのには相当の忍耐力と根気を必要とするようだ。"慣れる"とは恐ろしいもので、その"空恐ろしいテレビ放送"が老若男女の国民に受け入れられていると思うと、何やら「背筋が寒くなる」思いがする。

 民放テレビが各局"ドングリの背比べ"なのに比べると、新聞各紙は各紙の特色が一目瞭然である。国政に対する姿勢が「反対のための反対」もあれば、寄らば大樹の何とやらで「よいしょ」を恥じずに表明している新聞ありきで、その合間の"良いとこ取り"で取り澄ましている観のものもある。いずれにも眼に入るのは広告の多さで、TV・CMに負けず劣らずだ。広告やCMが各メディアを席捲する様相はこの時代を象徴している。

 テレビと新聞両者に共通しているのは、「報道の使命」とやらがどこかへ吹き飛んで、資本主義の原則に沿って「利益」を追求する根本姿勢だ。「報道の使命」とはそのカモフラージュに過ぎないのではないかとの疑念が湧く。公共放送の看板を信じてNHKが伝えるニュースで時代を知り、朝日・毎日・読売。産経各紙のどれかで世界を見た気になっても、どこか何かが違うのではないかとの疑問が消えない。

 国会の場で内閣を構成する閣僚が平然と嘘を述べて恥じない時代だから、ひたすら政府与党にケチをつけて、その揚げ足取りに無為な議論を繰り返す不毛の野党が存在して、その両者が提供してくれる"情報"という名の「ガセネタ」を売って商売するマスメディアがある。その域を出ていない印象のメディアに未来はあるのだろうか。実態を知ることなく既存メディアに依存している国民は、どこの何に救いを求めれば良いのだろうか。

 自分の五感を錆つかせずに、自分の目と耳を研ぎ澄ませて、生の情報を得る努力をする以外救われないのかも知れない。世の中のあらゆるものがカネで左右されるこの時代は、「信じるに足るもの」を探すのが至難だ。「疑いありき」で物事を見聞きせねばならない時代が、果たして「豊かで便利な時代」なのだろうか。うら悲しい時代の未来は、一体どんな色をして居るのだろう。色がない無色透明の真実に出会うのは容易なことではない、それが久々に接したテレビと新聞メディアの印象であった。

 それぞれの思惑の色に染め上げられたマスメディアに依存するもよし、それらの既存メディアと距離を置いて接するもまた良しで、更にはマスメディアそのものを拒否するのも一方策だろう。情報という怪物とどう付き合うかは各人の自由である。現代社会はすべてのものが「利益」のために操作されていることを念頭に置いて、どう自分の主体性を確保するか思い惑わされた新年の幕開けだった。