獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

日本人の弔い

 改めて申し上げるまでもない「高齢化社会」である。前後左右どちらを向いても高齢者が眼につく。そう言う自分もまた純然たる高齢者である。高齢化社会は好むと好まざるとに関わらず、人の「死」と向き合わざるを得ない。誰しもに訪れる"招かざる客"だ。当事者は無論のこと、残る家族にとっても重い負担になる。

 我が国の葬祭は仏教の影響が色濃く、「死」に関する考え方やしきたりも仏教が基本になっている。善し悪しを論じることは禁句の如くにされて、日頃から仏教とは縁遠い人たちが何故か人の「死」を前にすると、俄作りの"敬虔な仏教徒"に早変わりするから不思議である。憲法で"信教の自由"は保障されているのにである。

 そもそも日本人に仏教徒が多いのは、歴史的に平安・鎌倉時代まで遡らねばならず、本稿のテーマではないので省くが、室町幕府から徳川幕府までに仏教徒になることが義務づけられた経緯からである。明治憲法が制定されてからは基本的に義務化から解放されたのだが、その名残が各種の年中行事などと一体になって現在まで受け継がれている。

 各地の神社の氏子同様に寺院の檀家も義務ではなく、基本的に自由である。仏教徒になろうがなるまいが、個人の自由であり家族の自由なのである。特に寺院の檀家制度は、江戸時代まで現在の戸籍制度の役割を担ってきた。それゆえ"本家"と"分家"それぞれが親の信仰した宗旨・宗派を受け継ぐという古い形になっている。

 注意すべきはその古い檀家制度が事実上崩壊して久しいのに、未だにその古いしきたりに束縛されて高額な葬儀費用を支払っている現実である。菩提寺がないにも関わらず、又は遠隔地であったりするために、葬祭業者の言いなりになって高い料金を支払わされているのである。そもそも菩提寺が提供する「戒名」とは何ぞやをご存じであろうか。

 「戒名」がなくても別段死者が困るわけではない。残る家族に災いが及ぶことも決してない。なのに訳が判らない「戒名」に大金を投じ、更に訳が判らない「読経」に高額報酬を支払うのは何ゆえなのか。筆者は約40年全国の各宗派本山や寺院と関わりがあり、一通りの専門知識を持ち合わせているが、それらのいずれにも明確な根拠はないと申し上げねばならない。

 日本人の多くは葬儀が死者のためだと誤解している。「死人に口なし」で亡くなった当人は一切預かり知らぬことで、葬儀に関しては残る遺族のためなのである。有り体に言えば正体は「見栄と虚栄心の産物」そのもので、遺族の社会的地位や役職などによって大きくランク付けが変動する。それもこれも全て葬祭業者の営業手腕で、悪いが死者とは何の関わりもないのである。

 極論するなら死者を仏教の様式で弔わねばならない決まりなどないのである。生前の当事者の希望と残る遺族の都合で決めれば良いことなのである。現在法制度で規制されているのは「火葬」のみで、他人の権利を侵さない限り許可を得ていればどこへ葬ろうと原則は自由なのである。科学的に魂や遺恨が残ることはないので、届け出さえ怠らなければ自分の家の庭に葬ることも可能である。(近隣住民の同意と許可が必要)

 基本的に拘束や束縛はないので、宗教や冠婚葬祭に関する文化の知識を得れば、自分達独自の「オリジナル葬」を行うことも出来るのである。日頃から仏教と関わりが深かった筆者は、自分の親や兄弟の「戒名」を自分で決めて、火葬場と墓地での納骨供養も自分が読経して行った。要した費用は病死だったので、病院から火葬場までの霊柩車料金のみである。

 仏教に依存して葬儀を行うか否かは遺族が決めることで、安易に葬祭業者へ任せることは後で高額な料金の出費になる。最近の傾向として主要な寺院は指定の業者が決まっていて、それ以外の外部葬祭業者は断るケースが多いようだ。各病院と提携している葬祭業者も多いので知識がないままに任せてしまうと、寺院の選定から「戒名」に到るまで全て業者の思惑と営業方針で進行する。

 高齢化社会であっても事前に人の死を予測するのは難しいので、信頼できる主治医が居たら率直に相談してみることである。多くの高齢者を看取っているベテラン医ならば、きっと親身に相談に乗ってくれるだろう。いずれにしても怪しげな知識で判断せず、事前にキチンと調べて置くのがベストだろう。娘や息子の結婚式は事前に万全の備えが出来るが、人の「死」は待ったなしである。

 悲嘆と慌ただしさの中で急がねばならないので、つい専門業者へ安易に依頼するケースが殆どだろう。ゆめゆめ業者の口車に乗らないよう、文字通りの老婆心ながらご忠告申し上げる次第だ。