獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

ジョン・コルトレーンの時代

 高齢者は古いセピア色の話が多くて恐縮だ。デジタル時代の現在では、"セピア色"の意味さえご存じない若い世代がいる。遠い遠い昔日になった。その時代の名残を留めるものが少なからず手元に残っているが、その中に立花実著「ジャズへの愛着」と題されたB6版の古書がある。昭和45年(1970)にジャズ批評社から刊行された一冊である。

 「立花実」の名を知る人は現在殆ど居ないだろう。「吹くことは世界に触れることだ」と最後のジャズ・エッセイを締めくくって、「立花実」は昭和43年(1968)34年の生涯を自ら閉じた。編者のあとがきには「彼にとっては、それこそ"書くこと"が"世界に触れること"なのではなかったろうか。」と記されている。

 編者のあとがきは更に「彼の"書くこと"は決して終わっていない。そのような意味で、遺されたエッセイの数々を読むとき、人は痛みを感じずにはおれないだろう」と続く。茶色に変色した古い一冊だが、筆者は大手術の前の整理でも、この本だけは捨てられなかった。何かしら自分自身の心と体の一部を捨て去るようで、手放せなかった一冊である。

 「立花実」は北海道旭川に生まれて、宮城県仙台市東北学院大学経済学部へ入学する。在学中からジャズ・エッセイを書き始め、ジャズ誌「スイング・ジャーナル」に投稿した。その鮮烈な血を吐くような表現が編集長の目にとまり、寄稿やLP盤のライナーノーツ執筆などの仕事が入った。大学を中退して岩手県の農協に職を得て、本格的にジャズ・エッセイを書き始めるのである。

 時代は50年代から60年代へ移り、"モダン・ジャズの時代"が花開いていた。当時トップ・プレイヤーとして脚光を浴びていたマイルス・ディビスのコンボに抜擢されて登場した、無名の新人テナー・サックスプレイヤー「ジョン・コルトレーン」との音楽的出会いが、彼の人生を一変させたのである。

 「コルトレーン命」とも思われる彼のジャズ・エッセイは、やがて本格的ジャズ評論に発展して多くのジャズ・ファンの目を奪った。50年代からジャズを聴き始めた筆者は、当時「スイング・ジャーナル」や「ジャズ批評」などの音楽誌も愛読していたので、「立花実」の最初のエッセイから、洩らさず眼にしている。

 60年代のジャズの熱い黄金期を体験しているので、当時各地にあったジャズの店へも足を運んだ。ライブやコンサートの企画なども手がけた。「コルトレーン時代」と言われる一時代を築いて、神の境地を目指した「ジョン・コルトレーン」は若くして突然自殺した。「コルトレーン命」であった立花実の文章は痛々しいほど悲痛だった。生きるために呼吸するのさえ大丈夫かと思われるほど悲痛だった。

 当時彼の文章に接して、立花実の死を予感した読者は筆者だけではなかっただろう。案の定というか、やはりというか、立花実は「ジョン・コルトレーン」を追う如く34歳で自らの命を絶った。実際に会って話したことは一度もないが、50年の年月が経とうとしている現在も、私の中にジャズ・エッセイスト立花実は忘れ難く存在している。

 時代が大きく様変わりして、世に跋扈する音楽シーンも変わった。ジャズに往年の輝きはなくなったが、そのルーツは今も受け継がれている。アメリカ大統領が黒人のオバマから白人のトランプに変わっても、ジャズの歴史は消えない。同様に日本のジャズが語られる時、ジャズ・エッセイスト「立花実」の名を忘れてはならないと思う。

 60年代に多くのジャズ評論を書いたフランク・コフスキーは書いた。「この音楽は愛と共同の精神が苦難と競争にとってかわるべき未来のあるべき姿を、はっきりとわれわれに告げている。ひとたび未来の姿を垣間見れば、われわれの営んでいる生活様式はまったく我慢のならないものになるのだ」と。

 歴史と時代は巡り巡るが、人間の崇高な精神は不変だ。純粋という言葉の意味が怪しくなっているこの時代に、かつて一際光彩を放って短い生涯を閉じた人間がいたことを、忘れないで欲しいと願っている。セピア色は古くても、その中に秘められた"輝き"は決して色褪せては居ない。熱く激しい情熱が昔日の時代に、間違いなく存在したのである。
 
 立花実が農協に職を得た岩手県には、一の関市に伝説のジャズ喫茶「ベイシー」があった。ジャズ・ファンの間では"ベイシーモデル"と呼ばれて、垂涎の的だった英国製レコード・プレイヤー「LINN-LP12」+SME3009S2(初期モデル)+デンマーク製・オルトフォンSPU往年モデルは、長く「伝説の名機」と語り継がれて来た。

 筆者は昨春まで、その「伝説の名機」を所有していた。「難聴」のため処分したが、ジャズとは半端でない付き合いと関わりがあったのである。