獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

ブログを書く阿呆と見る阿呆

 現代はSNSが全盛である。「ツイーター」に代表される短文発信がスマホで簡単にできる。インターネットが普及し始めた初期の頃から、無料で利用できるメールが急速に広がった。携帯電話で利用するために定型化された用途別のパターンが出来上がって、若年世代を中心にその利用が"定番"になった。

 時代の進歩だと他人は言うが、世にパソコンが登場した初期からの利用者には素直に頷けない。WindowsなどのOSがまだなく、個々のアプリを立ち上げるのが容易でなかった時代は、文字入力でMS DOSと格闘した。否応なしに文字や言葉を考えざるを得なく、必然的に"熟語"とは何かを考えねばならなかった。

 その時代を思えば文字通り隔世の観がある。しかし、簡略化されて手軽に便利になったことと、言葉に日本語特有の情緒と奥行が失われたこととは同次元ではない。丁寧に言葉を紡ぐことが忘れ去られ、必要最小限の用件を伝え合うことで事足れりとする風潮が生まれて、それが広範に分布して一般化した。

 好むと好まざるとに関わらず世の大勢はSNS化している。今やその風潮に抵抗感を感じる世代は、脳動脈が硬化して新しい技術を理解できないか、その新しい技術について行けない一部の高齢者だけだろう。純文学の"芥川賞"受賞作品さえ、多くがSNS化文章で書かれている時代なのである。

 当節この時代に長文のブログを書くなど、馬鹿げている行為そのものだ。書いている当人がそう認識しているのだから、これほど間違いない確証はないのである。書き手が阿呆なら読み手も阿呆で、"同じ阿呆なら読まなきゃ損々"とは決してならない。それを承知で自虐的にSNSへのシェアや広告掲載を拒否して、殆ど読者がいないブログを書いているのである。

 現代は商業主義が全盛の時代だから、それを上手に利用して広告収入が得られる。その手法と、どういう文章を書けばアクセス数が増えるかも承知している。無料のYahooブログを長く利用してきたが、アダルト系の過激な文章を掲載した時は信じ難いほど急激にアクセスが増加した。アクセスが増えるにつれて貼り付けられる動画の広告数も増えて、とても文章を書く環境ではなくなった。

 無料ブログの限界を痛感していた折にYahooブログのサービス終了が発表されたので、兎も角も広告がない有料サービスがある「はてなブログ」へ移行したのである。移行と同時にYahooブログは全面削除して閉鎖した。原稿数が増え過ぎたので少し整理して現行の如くに到っている。何ゆえ敢えて有料ブログを書いているかと問われても即答に窮するが、まず第一番は自分が納得できるか否かである。

 生来人一倍好奇心が強く、物事すべてを傍観するのを潔しとしない困った性格の持ち主である。体験主義と言えば言えなくない性質を持つので、多分常識では考えられない数多の職業に身を投じてきた。歴史学会のお歴々と渡り合った専門書の出版から、東京都心を走るタクシー運転手まで実に多種済々である。我ながら驚くほどの多くの体験から紡ぐ自己主張を、自分を離れた第三者として見つめるためにブログを書いている。

 なので凡そ他人に読んで貰おうとの野心や下心はない。自分の文章を一旦手元から突き放して、第三者として他人になって自分の文章を見ている。そこで納得が得られるかどうか自己確認しているのである。自問自答という言葉は多分このことを指すような気がする実に"可笑しげな"行為だ。数少ない読者の皆さんには謝罪せねばならないが、以上が率直な実情である。

 私は元来時代に流されることを好まない。他人と群れることも好まない。男として女性は大いに好むが、それ以外は「孤高」でありたいと願って80年を生きた。人一倍思慮深くありたいと努力してきた。それゆえに自分が生きているこの時代に様々に感慨がある。その一端を言葉を選び、表現に拘って文章化している。日本人として、日本語を愛するが故に、短文化の時代に逆行して丁寧な長文を自分の課題にしている。

 人間も動物の一種なので「思いつき」行動が少なくない。自分なりにはそれなりに考えたつもりでも、咄嗟の判断で行動を起こす場合が多々ある。後で考えると何であんなことをしたのだろうと疑問に思うことが数多くある。現在全盛のSNSに見られる言葉や文章は、多分にその「思いつき」の範疇であり類いと言うことが出来る。悪口を言えば"軽率"のそしりを免れ得ない。

 その「思いつき」発想を公共放送NHKが、番組の中で大々的に取り上げ紹介している。一瞬ひらめいた「思いつき」が、放送番組ばかりか世の中の大勢さえも変え兼ねない様相を見せている。あれもこれも時代の流れだと、物判りの良いフリをして誤魔化すのは如何なものか。私たちの身辺にはその類いの問題がゴロゴロしている。時代の流れがどうあろうと、問題を問題として認識出来なければ高等動物とは言えまいと思っている。

 ブログを書く阿呆と見る阿呆はそれぞれだが、自分に嘘をついて誤魔化すことを止めれば世の中の本来の形や色が見えてくる。マスコミ報道を真実だと鵜呑みにせず、立ち止まって自分の目と感性で見直せば、より真実が真実の顔を見せてくれる。そう信じて言葉を紡げば、その言葉は多分"命"を宿すだろう。それこそが文章だと私は思っている。日本人による日本語の文章を失ってはならないと、私が考える所以である。