獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

立ち止まらない社会

 私達が今を生きている現代社会は「豊かで便利な社会」だとされている。我が国は先進国で、商工業の生産性向上によって国民所得は増えて豊かになったと聞かされる。大都市の商店街は人で溢れ、ありとあらゆる商品が所狭しと並べられている。テレビに映し出される国民生活は、人を人として扱わない"コメディーやパロディー番組の消耗品"で、すぐにその場で捨て去られるモラルやマナーを誰も不思議に思わない。

 それほどこの国は国民所得が向上した豊かな先進国なのであろうか。人を人とも思わず"使い捨て"にする派遣制度があり、ボロ雑巾のように使い捨てられる膨大な数の派遣労働者がいる。人を安く使い回した「利ざや」で、各業界は空前の利益を上げているという。誰かが誰かに犠牲を強いて、その結果得られた収益が至極当然に社会を循環して、国民生活を豊かにしているのだそうである。

 そういう政府と日銀の説明に、なるほどと納得する国民層も現実に居るだろう。しかし、その確率は精々国民全体の1%程度だろう。その他の圧倒的国民層が実感する"豊かさ"と、政府や日銀の説明は途方もない大きな落差がある。安倍長期政権になって久しいのに、依然としてその説明は微塵も変わっては居ない。それなのに異議を唱える国民が居ないのである。誠に奇妙覿面と言わざるを得ない。

 それどころか国民生活は「立ち止まること」なく流れ続けて、どこへ行くのか知れない奔流に身を任せている。近代経済学にも、民主主義そのものにも、巨大な矛盾があることを知りながら、それでも「豊かで便利な社会」は決して立ち止まらない。時代の潮流が激流に変化したとしても、「豊かさ」と「貧しさ」が併存しながら流れ続けるのだろう。

 「豊かさ」とはどうやら日本国中に"ミニ東京"が拡がり、ネズミや野生動物しか通らない地域に新幹線や高速道路を作り、大都市東京は10年後には住む人が居なくなる巨大マンションやホテルを作り続けることのようだ。それによってどこかの誰かが、どこかの企業や業界が巨額の利益を手にすることらしい。空前の巨利を得ても従業員へ還付するのではなく、会社の金庫から溢れるほどに蓄財することが現代の経営学のようだ。

 巨大企業や業界が潤えば同時に保守政権も潤って、両者の"蜜月関係"は永遠に終わることがない。「便利」という名の下に全国各地に拡大されたインフラや新幹線と高速道路は、何年か後にはメンテナンスが必要になって更に巨大企業や業界を潤すので、政府や日銀の説明が間違っているとは言えない。但し、その経済循環が恩恵をもたらすのは、巨大企業とその業界のみである。多くの国民と無関係に利潤は巡り続けるのである。

 近代科学は多くの分野でカネしか信じない「文盲」を生み出し続けている。「豊かで便利な社会」はカネのみが価値を有し続けるので、そのカネを持つ者と、持たざる者との「格差社会」が拡がり、そのカネを持つ者は全てのツールを入手できるので、教育や社会生活のほぼ全てを思い通りに出来る。事実上のブルジョア社会の恩恵が、その層のみに享受される。カネを信奉する新興宗教の如き企業や業界を形勢している。

 知識は学んでも実際に活用できない「文盲」だけ増えて、生産と消費の原型が理解されないまま人間社会が出来上がっている。毎日の生活で口にするお米が農家でどう育成されて消費者の手に渡っているかを国民は知らない。この市場経済の資本主義社会で、どう利益が生み出され、どう社会を循環しているのかを考えなくなる。面倒な理屈を考えなくても、商業施設へ足を運べば欲しいものは何でも手に入る。その日の暮らしに事欠かなければ、社会の仕組みなどどうでも良くなるのである。

 「豊かで便利な社会」という言葉に慣らされて、自分の利益や恩恵がどこかの誰かの犠牲の上に築かれていることに鈍感になる。苦労や労力を伴う荷役は他人任せで、痛みや責任は他人に押しつけるのが当然になる。それを「豊かさ」だと錯覚し、その錯覚に慣れて次第に痛みや責任そのものさえ感じなくなる。文字は読めても、意味や内容を理解できない「文盲」が、補助金だらけの"大学という名の企業"で量産されている。

 それでも人々は誰も「立ち止まらない」。中身や正体が良く分からない奔流に身を任せて、「楽で安寧な生活」を楽しんでいる。何かが"嘘くさい"と感じても、"そんなものさ"と肩をすぼめて通り過ぎる。今更のように面倒な理屈を考えるのは野暮で"ダサく"、そんなものは"暇な年寄りに任せておけ"とオチがつく。かくして時代の潮流は留まることをしない。私や貴方の足元を音もなく不気味に流れ続けている。