獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

サラリーマン社会

 一口にサラリーマン社会と言っても、実に多種多彩な時代になった。一昔、二昔前には予想すら出来なかった生活実態が現実になっている。植木等が一世を風靡した「無責任時代」の代名詞がサラリーマンだった。事ほど左様に生活が保障された"気楽な稼業"であった時代が、長く続いたのである。

 当時の植木等の歌の文句じゃないが、朝出勤してタイムレコーダーをガチャンと押せば「何とか格好がつく」職業であった。身の回りに合わせてそれなりに動いていれば、決まった給与とボーナスが約束された身分であった。関心事は"出世レース"に乗り遅れないことで、万事"それなり"に振る舞っていれば、"それなり"の結果が付いてきた時代であった。

 先進国共通の現象で幼少時からの環境レースがあり、名門とされる学校へ進学すれば特別の就職活動などせずとも名門大企業の窓口が開かれていた。親を始めとする「コネ」が神通力を発揮して、本人が知らぬ間に就職が決まっているケースが多々あった。現代社会との共通点を探せば就活時の大学間格差で、「東大・京大」「一橋・東工大」「早稲田・慶応」などと受付企業の窓口が明瞭に分かれていた。

 現代の巨大化した企業のオフィスに在籍するサラリーマンは一様ではない。正社員という特権階級と、契約社員派遣社員などと呼ばれる"使い捨て社員"がいる。「同一労働・同一賃金」はどこかの左翼政党と労働団体のキャッチフレーズだが、労働現場の実態は相変わらず悲惨だ。何より大きな社会変革は、人が人を使い捨てる時代になったことだ。

 カネや資産を持つ富裕層が、持たざる普通の市民層を食い潰すのが"当たり前"になった。封建時代の君主のように、カネと力で有無を言わせず無法を押し通す図式が合法化された。民主主義の名の下に強者の論理「市場経済」が導入されて、豊かな者は益々豊かに、貧しき者は益々貧しくなる「格差社会」が現実化した。

 サラリーマン社会の立場が一層曖昧になり、事の是非を問わず経営側に追従する正社員層と、その経営側と対峙せざるを得ない非正規社員層とに分断されている。徹底化された"物言わぬ差別"の締め付けが厳しくなり、その狭間で揺れ動く新人達の中途退社が相次いでいる。少子高齢化の荒波に洗わても、尚その図式は基本的に変わらない。

 単純化すれば「人を人と思わない」ことが企業倫理になり、社長以下の経営陣も等しくサラリーマンである。創業社長が存分に手腕を発揮した時代は遠くなり、サラリーマン経営者が描く夢は「可もなく、不可もなく」であろう。万一の失態に対処するため膨大な「社内留保金」を蓄える"ドングリレース"が日常化して随所で見られる。

 「人を人と思わない」使い捨てのボロ雑巾経営は、社長以下の経営陣自らの首にも真綿のように絡みついて締め付ける。自らの保身が最大の使命と化した企業経営が、グローバル時代の荒波で弱体化し、幾多の巨大企業が身売りや縮小・撤退を余儀なくされた。一億総サラリーマン化したかの如き様相が一転して、今やサラリーマン受難の時代だ。

 業績アップが見られるのは零細・中小のIT関連企業ばかりで、巨大化して全身の神経が麻痺したが如き大企業は"ボロ隠し"に身をやつしている。数字さえ揃えておけば我が身は安泰だと確信する小粒で姑息なサラリーマン社長が増えた。成長は経営学の数字のマジックで繕い、「可もなく、不可もなく」に徹しているようだ。

 一昔、二昔前の、タイムレコーダーをガチャンと押せば何とかなった時代から、今や効率を最優先する神経を張り詰めたオフィスに変わった。気楽どころではない過重労働が普通になった。好き勝手に残業しても残業賃金は支払われず、かと言って仕事を残すと上司から無能と評価されて左遷される。

 それでもなお毎年多くの新卒学生が就活を行う。まるでサラリーマンになる以外の道が閉ざされているかのように、都市部や地方を問わず一斉に就活に走り出す。世の中の大勢に乗じて「群れて流される」のが一番楽だとばかりに、殆どの学生達が皆同じ行動をする。それほどまでに「サラリーマンは気楽で割の良い」職業なのだろうか。