獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「川端康成と遊記山人」続記

 前稿「川端康成と遊記山人」については、広く世に知られた人物が登場するので注目度が高いと思われる。それゆえ誤解がないようお断りせねばならない。偽りや誇張などのフィクションでないことを証明するため、当事者と筆者との関係を文中に書いた。特に「遊記山人」宮田とは、晩年亡くなるまでの10年余を行動を共にした。

 誤解されやすいので敢えてお断りするが、「遊記山人」宮田と筆者との間に雇用関係はない。「遊記山人」宮田が常々口にされていた「私の友人○○君です」が物語るように、格好良く言えば"ボランティア"である。請われるままに10年余を無償でお付き合いした。そのことは「遊記山人」宮田のすべての関係者やご家族が知っていた。

 何ゆえそんな関係になったかは長い説明を要するので折を見ての他稿に譲るが、感動的なドラマがあって自然にそうなった。不思議と言えば誠に不思議な関係なのである。一切の利害関係がないのでお互い遠慮がなく、ご家族も知り得ない人間性や内情まで踏み込んだお付き合いであった。何故か関係者の多くが、若い当時の筆者に手を合わせて合掌するのである。

 「遊記山人」宮田は、清朝期まで続いた中国の古代書法を受け継ぐ「唯一無二の書人」で、伝統が途絶えた本場中国の大学などから多くの研究者が訪ねてきた。我が国書壇の有名書家にとって「雲の上に聳える孤峰」で、宮田が落款に使用する朱文印・白文印は共に中国の巨星齋白石が刻したものである。国宝級の逸品で文字通りの"垂涎"ものだ。

 「大漢和辞典」の編纂で文化勲章を受けた諸橋轍次博士が、「我が国漢文の第一人者」と賛辞して親交を深めたことも多くの人が知っている。度々開催される「遊記山人」宮田を讃えるパーティーに欠かさず出席される東山魁夷画伯夫妻と、皇太子時代の平成上皇の書道ご進講を務められた書家の桑原翠邦など、枚挙の暇がない方々が居た。

 全体像をお伝えするためにはまだ多くの推敲を重ねねばならないが、「川端康成と遊記山人」との濃密な独自の関係を片鱗なりともお伝えできれば、筆者として望外の喜びである。歌人でもあった「遊記山人」宮田は生前数多くの出版物が刊行されたが、いずれも非売品の限定本などで書店の店頭に並んだことはない。

 病み上がりの高齢者なので時間と体力が続く限りの限定条件がつくが、数多くのエピソードを順次公開したいと予定している。文献を実証していない記憶なので、人名表記などに一部誤りがあるかも知れない。その節は何卒ご容赦を賜りたい。