獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

台風一過とその惨禍

 台風一過の見事なまでの青空である。未曾有の大雨で各地の河川に氾濫が相次いだ。テレビのニュースが映し出す映像は、悲惨な被災地の様子を否応なく見せつける。人間が引き起こす犯罪でも、台風や地震などの自然災害であっても、人間は至って無力だ。何も出来ずに茫然と嘆き悲しむ以外の方法・手段を持ち合わせていない。

 それゆえに人間は親切なのかも知れないと思うことがある。何も出来ないからこそ自分に優しく、他人に対しても優しく接することが出来るのかも知れない。改めて「個」の存在に気づき、そして「連帯」の必要性を感じるのだろう。一人では生きられないと理屈では分かっていても、何事もない平穏な日々の中では忘れていることに気づくようだ。

 災害が起こる度に繰り返されるが、異常事態に見舞われると誰彼の別なく助けを求める。別の誰かが助けてくれると誰もが信じている。高度に発達した文明社会のシステムが、普段の生活と異なって料金の支払いなく利用できるのだ。日常生活で必要とするサービスはどれも等しく対価の支払いを要する。なのに非常時に利用するサービスは大抵が無料で提供される。

 航空機や新幹線を利用すればファーストクラスとエコノミークラスの別や、グリーン席と普通席の区別がある。しかし、命の危険を感じた時に利用する救急車に、それらの区別は一切ない。運悪く火災に見舞われた際も、駆けつける消防隊に優劣の区別はない。特に今回の台風禍や先年の大地震などでは、救助する消防隊や警察官にもそれぞれ家族が居るのである。

 自分自身も被災者でありながら、家族を後回しにして他人の救出に当たっている人間が居ることを、私たちはどの程度理解しているだろうか。助けられる側が人間ならば、助ける側もまた人間なのである。見知らぬ他人のために時に命を投げ出して活動する人間を、単に職務だと言い捨てに出来るだろうか。

 親切とは何であろうかと思うことがある。自分が受けるのは当然の権利だと思い込んでいても、他人のためにどこまで優しく、どこまで親切になれるだろうか。「自己犠牲」を厭わずに他人を助けることが出来るだろうか。「困った時はお互いさま」と言いながら、単にその言葉に酔って"自己満足"しているだけではないだろうか。

 突発的に見舞われる自然災害を防ぐ手立てはない。人間同士が助け合って乗り切る以外の手段はないのだから、いつ助けを必要とするかは誰にも分からないのだ。常に当事者の心づもりで災害にたち向かわねばならない。テレビのニュースが伝える映像が若し自分であったらと考えれば、何をどうすべきかは自ずから分かるだろう。

 人間が人間としての当たり前の日常を突然奪われたら、あなたならどうしますか ?