獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人間であること

 突飛で恐縮だが、自身が人間であることを考えたことがお有りだろうか。当たり前すぎて取り立てて考える機会がない人が多数派だろう。特に考えなくても人間として生まれて人間として生きているので、哲学のゼミでも取り上げられる機会が多いとは言えない。人間としてどの範囲に焦点を当てるかで、見えてくる光景が大きく変わる。

 私たちは普段意識しなくても、人生の1分1秒たりとも人間業から離れることはない。呼吸して心臓が動いている限りは現役の人間である。それなのに不思議に自分が生きているという実感や実証がないまま、何となく生きてはいないだろうか。別に生きていることをサボタージュしているわけではないのだが、それで不便を感じる人も殆どいないだろう。

 事程左様に人間生活は結構いい加減な部分が多々ある。いい加減という解釈も人それぞれに違うだろうが、その多くは生身の人間の思惑が大半だ。自分にとって都合が良いことと、都合が悪いこととで異なるが、意識するしないに関わらず何某かのフイルターが掛かって色つきになる。そのフイルターもまたその人の思惑で様々に変化する。

 何でもない当たり前のことや、普通に出来ていることほど、不思議に真相が見え難い。自分が人間であることにはストレートに辿り着けるが、どういう人間であるかの段階になると途端に進行スピードが鈍り、時には難破船のように漂流する羽目にもなる。難しいか否かといえば決して難しくはないのに、自分に関する真相や真実は容易に見えない。

 人間感情には種々雑多な雑念があって、それらを整理したり潜り抜けなければ「素」の自分には至らない。これが言葉で言うほど簡単ではなく、ゴールへ辿り着けずにリタイアしたり、断念に追い込まれるケースが山ほどある。気づいてみると他者と格闘しているのではなく、あくまで自分自身との戦いで疲労困憊してしまうのである。

 そうした体験を積み重ねると次第に自分と向き合わなくなる。どうせ同じ結果になるだろうとの思惑が働いて、スタート時点であきらめの心境に至ってしまうのである。自身と真剣に向き合って考えるよりも、屁理屈や嘘も方便で誤魔化すテクニックに走ってしまう。誤魔化しに最初のうちは多少抵抗感があっても、何度か繰り返すうちにやがてそれが自然に思えてくるから不思議である。

 自分と妥協する術を一旦身につけると、慣れが生じて中々そこから抜け出すのが難しくなる。肯定のための肯定が繰り返されるうちに、感覚が次第に麻痺して不自然なままそれがその人の哲学になって定着する。人間であることは誠に厄介である。当たり前のことが当たり前でなくなり、普通のことが普通でなくなるのである。

 真実と虚実とのせめぎ合いは世の中に多々あることだが、真実が必ずしも勝っている保証はどこにもない。善悪や正邪が逆転している現象は世間に事欠かないが、それを言う前に自分自身との対処が問われる。人間を人間として正確に計測するメーターがないまま、自分自身と向き合わねばならない。

 ごく普通に当たり前に自分に嘘をつかず、自分を誤魔化さずに生きていますか? いつどこでそう質問されても、確信を持って「イエス」と答えられますか? とても簡単なことなのだが、いざ答えようと思うとかなりの難問である。さて、どう自分に答えようか。