獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

姥捨て新時代

 今の時代に「姥捨て」と言われてもピンと来る人は少数派だろう。深沢七郎の小説「楢山節考」に描かれる世界は、現実にかつてこの国に存在した風習である。何度も映画化され、比較的最近のものでは今村昌平監督の作品が印象的だ。数々の映画賞を受賞されているので、内容はともかく名作映画としてご記憶の方も居られよう。

 今や夢物語になったこの国の、農耕民族としての貧しく悲惨であった時代は、そう遠い日のことではない。民俗史に関心がお有りの方ならご存じと思うが、古い生活習慣が色濃く残る農山村では決して特別のことではない、ごく普通の風習として行われていたのである。実の子が生みの親を、鳥も通わぬと言われる山奥へ置き去りにするのだ。

 年老いて肉体労働が出来なくなった親の宿命として、一定の年齢に達すると「お山」へ登るのである。手塩に掛けて育て上げた息子や娘に背負われて、帰り道がない「お山」へと向かうのである。「お山」の中腹で連れて来てくれた息子や娘と別れ、一人自力で「死」への最後の旅路に着くのである。

 この残酷で悲惨な歴史を現在の日本人の何人がご存じであろうか。社会保障制度など全くなかった時代に、年老いて子や孫の「お荷物」にならぬようにとの、現代社会では考えられない「親の情愛」が普通のこととしてあった。涙ながらの辛く苦しい別れがあったのだ。現代は親が子供を虐待する時代である。そこには他人の推測が及ばないそれなりの事情があってのことと思うが、時代が変われば変わるものである。

 現代は曲がりなりにも社会保障制度が整い、幼い子供や年老いた親は社会全体で養育する時代になった。数々の矛盾があるのは先刻承知だが、一応命は保証されて子や孫の世話にならずとも、天寿を全うできる世の中になった。早い話が子供は育ててくれた親を何もせず放置しても、社会保障と福祉制度で面倒見てくれる時代である。

 「楢山節考」の世界は遙かに遠い昔になったものの、現代社会は親が年金で生活して子供の世話にならない親が増えた。と言うよりも、子供や孫世代は最初から親の面倒を見る気がない。国が面倒を見てくれるのが当たり前になって、子や孫の世代は引退後の親のことなど念頭にない。自分たちの生活をどう快適に楽しむかを、考えればよい時代になりつつある。

 日本社会が変貌し、そこで生きる日本人も変貌が著しい。今や歴史を顧みる人が消えて、「自分本位」が普通になっている。何やら大きな荷物をどこかへ置き忘れて来たような、そんな錯覚を覚えるのは高齢者のみであろうか。山深い農山村でも「楢山節考」の風習を知る人は殆ど居なくなっただろう。無為に風雪に曝して消え去らして良いのだろうか。