獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

昨日・今日・明日

 現代社会は時間の経過が早い。時間そのものは変わりがなくても、心に残る印象としては"とてつもなく"早く感じる。人間誰しもに共通して「昨日・今日・明日」は訪れるのに、同じ一日とは思えないから不思議である。然も子供と大人では、感じる印象が全くと言っていいほど違うのである。

 昨日は言うまでもなく「過去」であり、今日は「現在」で、明日は「未来」と言い換えることも出来る。子供時代は何故か殆ど過去を振り返るということをしない。今日現在が絶対的重みを持って生活を支配している。微かに明日への希望もあるが、確実に実感できる現在を超えるほどには存在しない。

 それが何故か大人になると年代にも依るが、今日という日と過ぎ去った昨日とが微妙に重なり合う。特に現在苦境にある人や高齢者などは、ややもすると今日よりも昨日の方が"良かった"と感じるようだ。人間は誰しも「現在進行形」で生きているのだが、ある瞬間は記憶に支配されて苦境や不都合から逃れようと、昨日に逆戻りしたがる習性があるらしい。

 流れるように進行する"時間"は非情で、一時として待っては呉れない。例え何があろうと無情に流れ去って、刻々と"今"が"先程"に変わってゆく。豊かであろうと、貧しくあろうと、万人に等しく同じリズムで時を刻み続ける。理系人間は感情を押し殺してそれを当然と受け止めるだろうし、文系人間は逆に様々な感情の起伏に支配されるだろう。

 どれも同じ時間なのに、受け止め方の相違で顛末は大きく異なるようだ。無情の「時」に色々な人間ドラマを重ね合わせて、生きることの喜怒哀楽を表現する芸術や芸能の世界がある一方で、あるがままの自然現象に未知の可能性を追求する科学の世界もある。それらのどの世界であっても、過ぎ去る時間と「昨日・今日・明日」は変わらない。

 なのに人間はそれぞれの時で、思い悩み苦境に立たされる。長い長い時間と、一瞬で消え去る無情の時との相克の中で、"留まること"が許されない人生の非情さに直面する。理由の如何を問わず自らの人生は、どうあがいても自分の人生であることを思い知らされる。楽しい今がいつまでも続いて欲しいと願うのは誰しもの常だ。

 けれども楽しい時間はそれほど長続きしない。実際はかなり長くても長いと感じないだけで、苦しい時や悲しい時の矢鱈に長く感じるのと対照的である。人間は感情の動物だと言われる所以だ。楽しい日は短く、苦しい日や悲しい日は、長く感じる。それが人間ドラマで、起生顛末はそれぞれに異なる。

 実際に生きるに値する命はそれほど多くはなくて、大部分は生きるに値しない命だと言う人もいる。だからといって無闇に他人を殺傷して良い筈はなく、例え生産性が望めない障害者と言えども、人間としてこの世に生まれ出た以上は生きる権利が保障されている。その善し悪しは色々あろうが、やはり「昨日・今日・明日」は与えられる。

 高齢者となった老人にはそれなりの特別な感情が湧くが、それは残り少なくなった「明日」への不安が大半だ。これも逃れる術がない宿命なのだが、古今東西素直にそう受け入れられない人々が多く居た。"不老長寿"は今も昔も変わらぬ"夢"のようで、現在もテレビのBS放送ではその種の「訳が分からぬ商品」が数多く宣伝されている。

 どう悪戦苦闘したとて「昨日・今日・明日」は変わらず、万人に等しく「昨日・今日・明日」であり続ける。至って単純明快な論理なのだが、それさえも怪しげに色づけして、利益に結びつけようとする輩が無数に居る。あなたの「昨日・今日・明日」は大丈夫ですか ?