獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人生の道程とスピード

 降り続く雨はやがて止む。晴天の青空はいつかは曇る。どんよりとした鬱陶しい曇り空も、雨になることもあるが晴れることもある。どうなるのが幸せで、どう変わるのが不幸かは、人それぞれに違うだろう。だけど大空に向かって不満を言ったり、恨む人はまず居ない。

 なのに人間はひたすら急ぐ。いつ果てるとも分からない技術開発という名の下に、畏れを知らず前へ向かって進んでいる。前へ進むことがそれほど重要な意味を持つのだろうか。人間は空を飛べないのに、鳥を追い越して猛スピードで空を走っている。地上では新技術を競って電車や車が、大地を蹴って飛ぶように走っている。

 早いことのスピードが形而上学を超えて、人間に幸せをもたらすのだろうか。科学技術がどんなに発達しようと、人間が歩く速さは変わらない。なのに100メートルを走る速さを競っている。生まれながらに持つ肌の色を変えることは出来ないのに、髪の毛を染めてご満悦だ。事ほど左様に人間社会は不思議が数多くある。

 新技術や新記録は絶賛されるが、「ありのまま」が賞賛されることはまずない。自然のままに歩くことや、自然の法則で変化する季節や天候は受け入れているのに、尚も無理を重ねて「有り様」を変えようと急いでいる。そんなに急いでどこへ行くのか。行き着く果てはバラ色の「幸せ」なのか、それとも底知れぬ「奈落」なのか。

 セピア色に変色して使われなくなった言葉に「身の丈」「身の程」というのがあった。いずれも"分相応に"との語意である。便利な車や新幹線がまだなかった時代、人間は当然の行為として歩いた。どんなに遠くても、近くても、大人も子供も等しく歩いた。目的地へ着くまで膨大な日時を必要としても、そのことに疑いや不満を言う人は居なかった。

 道中で色々な土地の風に吹かれ、雨に打たれた。様々な他人との出会いがあり、それぞれの土地の食物に有りついた。まだ見ぬ土地への期待や淡い願いを抱いて、時にはゆっくりと、時には早足で、「ありのまま」に動いたのである。動くことは自分の意思で、自分の体を動かすことだと、誰もが知り誰もが納得していた。

 豊かな人も、貧しい人も、それぞれに自分の体を動かしたのだ。自分の体を動かすのに料金は必要なく、誰でもが必要な時に必要に応じて動くことが可能だった。だが現代の新技術はいずれも高額な料金を必要とする。その料金を支払わぬ人は司法によって罪人として罰せられる。そればかりか新技術の利用を拒否されるのである。

 次々開発される新技術によって、人間は本来の人間生活ができなくなった。否応なくその新技術を利用するために収入を得ねばならなくなった。自ら食糧を自給する自由が失われて、他人に奉仕して賃金を得る生活に変わった。それが自分の意思でなくても、その制度の中でしか生きられなくなった。本来の自由とは色が異なる自由を与えられたのである。

 自分が望んだ自由ではない、色や形が違う自由の中では、歩く行為が"反社会的"になる。大勢に逆らえば疎外されて弾き飛ばされる。急ぐ理由がなくても急がされて、好むと好まざるとに関わらず"大河の一滴"として呑み込まれる。個性の時代が強調されるが、肝心の「個」はどこかで窒息して息絶え絶えである。

 自由と言いながら「自由」がなく、「ありのまま」の自然が説かれながら、街も野山も海も人間の手で破壊され尽くされている。早いことが社会正義になって、理由もないのにただひたすら急ぐ。車窓の景色が見えない航空機や新幹線が便利の代名詞になった。ゆっくり、のんびり走る列車が次々廃止されて、ただ早いだけの高額な時代になっている。

 人智を超える新技術は人間生活に何をもたらすのだろう。ただひたすらに先を急いで、他人を追い越して、他車に割り込んで、その先に何があるのだろうか。競争という名の「暴走」があることを忘れては居ないだろうか。あなたの家庭に、あなたの会社に、陸上競技のトラックしかないとしたら、いつまであなたは走り続けられるのだろうか。

 歩みを止めて、走るのを止めて、見上げる空には青空や白い雲があるだろう。その青さや白さを感じながら、吹き渡る風の香りに気づくだろう。ただ我武者羅に先を急いでも、あなたの目や心に家族や友達、同僚は見えないだろう。"目隠し"されて走り続ける社会が、そんな時代が幸せであろうか。

 急がずとも歩き続ければ、いつかはゴールに辿り着く。途中で出会った色々様々な生き物や景色と事柄は、生涯忘れ得ぬ色鮮やかな記憶になるだろう。新技術の便利さはなくても、早さに紛れて気づかなかったり、忘れていたことに出会えるだろう。より生きている実感を満喫するだろう。

 有史以来人間は随分背伸びしてきた。豊かさと便利さを求めて、果てしのない旅を続けてきたような気がする。数多くの先人たちの努力で社会が変わり、人間生活が変わった。ただひたすらに前を向いて先を急いで来たように感じる。立ち止まることや、振り向くことを忘れたかのように、ただ前を向いて先を急いで来たようだ。

 ゴールがあるから人は走るのだとしたら、そのゴールの先にはまた別のゴールがあるかも知れない。ゴールだけを見つめて先を急いでも、永遠にその繰り返しなのではないかと思う、心の余裕が必要であるように感じる。人生は短調ばかりでなく、長調もあることを忘れてはならないだろう。

 果てしなく続く起伏を乗り越えるには、早いだけのスピードのみでない複線の発想が重要であるらしい。人間業を長く続けていると色々なことに気づくが、衰えた足腰の精ではない教訓も時にはある。無駄の効用とて捨てたものではないと少し嬉しくなった。