獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

便利で不都合な社会

 現代は須く超便利に出来ている。戦争を知る高齢者世代には凡そ考えられなかった現象が次々現実化されて、多少オーバーに言えば「夢の如き時代」が出現している。街の随所に食料品を売る店が溢れかえるほどある。自ら調理しなくても世界中のご馳走を口にすることが出来る。自ら額に汗しなくても、パソコンやスマホなどの端末を利用してリアルタイムで世界と繋がって連絡できる。莫大な利益を得るのも難しくはない。

 新型コロナウイルスの感染拡大で改めて認識させられた事例に、在宅勤務という新しい就業形態があり、「テレワーク」という名と共に急速に普及した。コロナの感染防止のために勤務する会社に来なくていいという。パソコンが1台あれば殆どの仕事を会社にいるのと変わらず、ほぼ処理できるということを誰が予想したであろうか。額に汗するどころか全身汗まみれになって、満員電車に押し込まれて通勤した昔が遠くなった。

 何より驚きはいつどこでも電話やメールで連絡できることが、「当たり前」になったことだろう。リアルタイムで連絡が可能になったのが往年のポケットベルで、会社や家庭を問わずピーピーという呼び出し音が鳴り響いた。それ自体通信技術の一大革命で、次いで登場した携帯電話は初期段階で「圏外」が多くて容易に繋がらなかった。それでも我が身と一緒に移動可能な通信手段は便利きわまりなく、高額料金にも関わらず急速に普及した。

 いつでもどこでも誰とでも連絡できるということは、強制ではなくても四六時中束縛されている状態を生み出し、現在は膨大な通信記録を利用する「ビックデータ」が新たな利益を産み出している。解釈次第では年中警察の尾行を受けているが如き状況が、誰にも気づかれずごく「当たり前」に出現している。個人情報保護法が制定されたのは大分前だが、それとは別に「個人情報」が私たちの知らない広い分野で利用されている。

 商品の購入についてもデパートへ出向いて物色したのは過去になり、今は送料無料でデパートより安く購入できる通信販売が広く利用されている。パソコンやスマホで通信料金も掛からず利用でき、地域によっては注文したその日に商品が届く。持ち運びの手間が不要なので極めて便利で、商品画像や豊富な情報で選択が可能だ。この便利さを利用しないのは今や"時代遅れ"の観さえある。

 ところがである。便利で快適なものには大抵何某かの"有難迷惑"が隠れている。電話が世界中の誰とでも繋がるということは、言い換えれば常時見知らぬ誰かに監視されているということでもある。誰かがその気になって調べれば、いつどこで誰と話したかだけではなく、毎日の行動記録それ自体も把握可能だ。事細かに足跡を追跡することが可能だ。便利で快適な裏面には、常に見知らぬ他人に裸身を曝している危険が潜む。

 買った商品を無料で配達してくれる極めて便利な通信販売も、いつどんな商品を注文したかの詳細な情報がデータとして記録される。翌日乃至翌々日には購入商品の関連商品が次々案内メールで届く。食品から衣料品、生活雑貨、家電商品から家具まで、あらゆるもの案内広告が次々来る。それも食品の味好みや衣料品のデザイン、色や形に到るまで本人嗜好に添っているから「薄気味悪い」ほどである。

 フリータイムで在宅勤務が可能になり、サラリーマンの宿命だった"身柄拘束"が消え失せた。自由を手にして満面の笑みがこぼれるかと思いきや、予期せぬプレッシャーが重くのしかかっている。上司や同僚の目を盗んでの"サボり"が出来ず、勤務時間に関わりない仕事量を消化せねばならない。矢張り便利で快適には有難迷惑な"おまけ"が付くようだ。好むと好まざるとに関わらず手に入る「便利で快適」は、押しつけがましさが度を超すと「不快で不都合」に急変する。

 誰かの作為に満ちたコロナ禍は、"自由な不自由"や"便利な不便"が溢れるこの時代を反映して、人工的な「不都合」を押しつけている。人間が主体的に生きる人間社会なのに、他者の都合に合わせなければならない「忍耐」が求められる。自分の人生なのに、必ずしも自分の思い通りにならないジレンマが数多くある。「便利で快適」であるべき筈が、無意識のうちに私たちを「不自由で不都合な世界」へ招いては居ないか。

 誰しもが無限に己の利益を求め続ければ、究極は他者の利益を収奪して圧迫する"迫害"に行き着く。利害の衝突が起きて民族間、国家間、地域間の紛争を生み出すだろう。便利さの様相が一変して、エゴとエゴとがせめぎ合うゴールへ辿り着くだろう。快適の前提になる豊かさを維持するために、強者が弱者を食い潰す現象が起きるだろう。既に大小様々な利害の対立が現実化している。強者や大国は常に覇権を求め、弱者や途上国を踏み潰す宿命を有するのである。

 言葉や文章にすると大袈裟に思える「便利で快適」は、多くの場合無意識に行われるので目に見えない妖怪の如くに忍び寄ってくる。目の前に現れるまで殆ど気がつかない。それほどに強烈な"毒気"を有するのだが、大抵は謎に包まれていて中身が判らない。私たちの身の回りに溢れる「便利で快適」は、今日も明日も世の中に歓迎されて使われるだろう。その際限なき"欲望"の行き着く果てには一体何が待つのだろうか。

 都合が良いのと、不都合とは、結果が現れるまで判然としない。便利なつもりがいつの間にか「不便」に、快適が「とんでもない不都合」にならない保証はどこにもないのである。それでも私たちは今日も溢れるような「便利で快適」に囲まれて生活している。