獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

消えた風情

 若い世代の皆さんには無縁かも知れないが、高齢者世代には何かしら心寂しい想いがある。移りゆく時代の常といえばそれまでだが、心象風景と現実の風景との落差に愕然とする。最近戸惑うことが多い市町村名も、平成の大合併とかで古い懐かしい町名が次々に消えた。新聞やテレビで報じられるニュースも、どこのどの町で起きた出来事なのかが判然としない。

 目に見える実際の風景は尚更強烈な印象で心に迫る。東京でいえば銀座も新宿も渋谷も変わった。70年代初頭に毎日通った銀座は、今や遠い記憶の中だけになった。数々ある思い出の中から、"挽き豆コーヒー"を買いに通った松坂屋デパートが消えた。8丁目にあった会社と路地を挟んで隣接する銀座第一ホテル2Fレストランや、中央通りを横断した資生堂パーラーなどは、来客との待ち合わせに良く利用した。

 華やかな銀座も一、二本裏通りへ入れば、立ち食い蕎麦や大衆食堂がまだあった。現在も残る数少ない小さな喫茶店では、別れた恋人と語らった日々があった。日暮れから出る屋台では、みたらし団子や磯辺焼きをよく買った。木枯らしが吹き抜ける夜の銀座で、一緒に頬ばった往年の大スターたちを憶えている。

 文字通りに激変した新宿の西口は、赤とんぼが群れ飛んでいた淀橋浄水場がなくなり、更地になった跡地へ京王プラザホテルが一軒だけポツンと建った。日暮れには西日を受けて高層ビルの壁面が赤く染まって見えた。広い更地に一個だけの高層ビルだった。他には何もなく、付近の十二社はまだ古い木造建築のバラックが数多くあった。

 渋谷は60~70年代に公園通りが整備されてからは、目立つ大きな変化がなく平穏だった。盛り場の道玄坂通りは表通りも裏通りも一見変化がないようで居て、その実懐かしい恋文横町が消えた。円山町界隈は相変わらず怪しげな店が軒を連ねるし、若者が殺到する大型ライブハウスだけが異彩を放っている。夏場は家出少女たちのたまり場と化す。

 現在渋谷駅が激変中で、工事中のため通路が迷路になって東京人すら戸惑う様相になっている。思い出深い東急プラザも今はなく、忠犬ハチ公銅像を取り巻く風景は様変わりしている。ハロウィン騒動で有名になったスクランブル交差点は、変わりゆく時代を映して変わらずある。公園通りに併設されたパルコや、70年代の若者文化を担った山手教会下のジャンジャンも今はない。公園通りの坂道を生暖かい風が吹き抜けるだけだ。

 合理化という美名の元に全国各地の町名が改正された。長く親しまれてきた由緒ある地名が消えて、味気ない通り一遍の地名になった。その地で生まれ育った人にとっては、自分の故郷を奪われた思いが強いだろう。私の生地港区麻布もその一つで、数々あった下の町名が消されて、元麻布、南麻布などに統一された。それを喜ぶ人が何人居ただろうか。

 人の世は人が生きて住むゆえに変わる。それぞれの時代にそこで生きた人たちの悲喜こもごもの感慨を残して、その場所にあり続ける。例え姿形がどう変わろうと、人の心に残る思いは消えない。小さな、小さな思いから、歴史に関わる大事件まで、その土地と場所には人の魂が宿る。その民俗史を消し去ってその後に何が残るのだろうか。

 変わりゆくもの、移りゆくもの、それぞれに是非があろう。けれどもその優劣を超えたところに人の生きた証は存在する。それに気づかず、それとも忘れて、何も可もが人間の都合による合理化で事足りるのだろうか。長い歴史が刻んだ遺産は一瞬で消える。消えた遺産は二度と再び元へは戻らない。進歩や発展は捨て去ることでは得られない。

 全国を旅すれば分かるが、東西南北どの地へ出向いても、目にする光景は"ミニ東京"である。東京のどこかを切り取って移したような町並みを目にする。ここでその是非を論じるのは遠慮するが、いつしか消えかけているその地域の方言と共に、人の暮らしが変わったことを実感させられる。

 国内を旅しても、悪口を言えばどこも同じと言えば言えなくはない。それが時代の進歩や発展だというならば、それはそれで受け入れざるを得ないのだが、決して心豊かにならないのは何ゆえであろうか。次々と消えてゆく風情に、何かしら万感胸に迫る思いを抱くのは高齢者特有のノスタルジーであろうか。