獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

ホームの桜

 先日肺癌再発のためのPET検査で、横浜線相模原駅を訪れた。生憎風が強い日だったが、高幡不動駅から京王線へ乗車し、終点の八王子駅でJR線へ乗り換えた。両線の駅が別個なので5分程度歩かねばならないが、病人の哀しさで息切れがひどく10分以上の時間を費やしてようやく乗り換えた。

 一昨年までは典型的な"車人間"で、遠近に関わらずどこへ行くのも車だったので付近を再三通っているが、電車へ乗るのは50年振り位だった。"お上りさん"よろしくキョロキョロしながらの道中だったが、歩行が容易でない病人ゆえ冷や汗をかいた。途中の車窓からは折から開花している桜が見え、息切れで時折意識が薄ぼんやりとする眼にも映った。

 走行中の電車から見える桜は一瞬だが、目的地の相模原駅のホームに降り立つと1本の桜の巨木が眼に入った。ごつごつと盛り上がった幹の太さから相当の年輪を重ねた桜であることが窺えるが、何故か不思議に人が乗り降りするホームのほぼ真ん中に立っている。どういう由来でこの場所に立っているのは分からないが、ちょうど満開を迎えていた。

 上を鉄道の架線が通り、前後左右は乗降客が歩くため、人間様の都合で上や横の枝が切られていると思われるが、少なくなった枝々に見事な花を咲かせている。隆々とした太い幹に触れながら、暫し休息を兼ねて枝先を見上げながら佇んだ。枝を切られて小ぶりになったとは言え、満開の花は見事な桜である。殆どの乗降客は見上げることもなく、足早にエスカレーターや階段へと急ぐが、折角綺麗に咲き揃った花々が気の毒に思えた。

 自分もまたこの桜と同じ運命かも知れないと、ふとそう思った。余命が長くはないのを自覚しているが、果たしてこの桜のように見事に咲いて、見事に散れるだろうかとの想いが胸を去来した。覚束ない足取りで桜のホームを歩き、辿り着いた病院の検査室へ入ってからも、その想いは消えずに残っていた。

 世間ではよく桜は日本人そのものだと言われる。無益な戦争へ駆り出され、是非を言えないまま無残に戦地に散った多数の若い命は、確かに桜に似ている。けれども敗戦から長い年月を経て豊かな暮らしを手に入れた現代の私達は、桜を見てそれらの先人達を一瞬でも思い浮かべるだろうか。ただ無為に"飲み食いして"、桜が見えない「軽佻浮薄」に煩わされてはいないか。

 重病を患うと普通は何でもない「明日」が堪らなく愛しくなる。確かな手応えとしての「明日」が遠のき、若しかしたら「明日」はやって来ないのではないかとの思いがある。同じ桜を来年も見られるだろうかとの強い思いがある。白に近い薄紅色の桜を眺めながら、覚束ない足取りでも自分の意思で歩けていることが愛しいのである。

 相模原駅のホームに立つ桜は多分来年も咲くだろう。けれどもその下で見上げる自分が、来年もまたそこにいるかどうかは分からない。そんな感慨に浸りながら、日暮れて闇に包まれ出した横浜線相模原駅を後にした。