獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

今日の歳時記

 妙なタイトルで、"京の歳時記"の間違いじゃないかと思われる方も居られよう。お断りするが、まだタイトルを間違えるほど呆けては居りませんのでご安心下さい。さて、今日のと表記したのには理由があって、近年の天候は季節感が乏しくなった。"地球温暖化"とかいう現象らしいが、夏と冬が逆転した日があったりして、「良い季候になりましたね」などという挨拶が出来なくなった。

 日本の四季は「春夏秋冬」にそれぞれ分かれていて、季節ごとの特色が際立つことにあった。それが今では混然として、街を歩く人の姿も冬の格好をした人も居れば、春や夏に近い格好をした人を見かけるのも珍しくなくなった。何が普通で、何が異常なのか、その区別が判然としない時代になった。

 限りなく近い近未来には「季節」という言葉が使われなくなる、そんな想像が想像でなくなる日が来るのかも知れない。それゆえに季節という単位ではなく、「昨日・今日・明日」という一日単位で季節を語らなければいけない日が、現実になるかも知れないと思うからである。善し悪しは別として、人間の営みが営みを変える時代に生きているらしい。

 だとすれば「今日」という日が限りなく愛しく思えてくる。長いようで短く、短いようで長い「今日」は、私達それぞれに何を与え、何を残してくれるのだろうか。途轍もなく長い暗夜行路も、「今日」という日の第一歩から始まる。何事に依らず"始まりなき終わり"はあり得ないから、やはり「今日」は大切なのだ。

 カレンダーは残り少なくなった2月を進んでいる。2月といえば「冬」の語感が強いし、数日違いの3月になれば途端に「春」の予感がする。気象は特別変わらなくても、私達人間の心は勝手に季節を先取りして都合良く解釈するようだ。季節感が薄らいで花屋さんの店頭には1年中色とりどりの花が咲いているし、スーパーや八百屋さんには年中同じような野菜や果物が並ぶ。

 豊かで便利な時代が良いのか悪いのかは人それぞれに違うと思うが、「季節」という言葉の存在感は確実に軽くなったようだ。梅の花が盛りを過ぎて、間もなく桜の季節が訪れるだろう。梅や桜は何故か日本人の心に特別の感慨をもたらすようで、何となく心浮き立つ思いになる。取り分け桜は格別で、老いも若きも桜の下に集う。

 冬だとの思いは早くも遠ざかり、カレンダーが変わる前に人の心には一足早く春がやってくる。「今日」という日はすぐさま通り過ぎるが、人によっては中々「明日」にならず、新しい「今日」がずっと続く予感があるだろう。待ち遠しくても、待ち遠しくなくても、確実に「春」はやってくるのである。