獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

文化遺産の価値

 最近とみに「文化って何だろう」と考えることが多くなった。「世界文化遺産」がブームを呼んで、大勢の人達が押しかける様子をテレビで拝見する度に、首を傾げたくなるのである。高齢者特有の"老婆心"がないではないが、昨今は「文化」と言う名の"商品"があるやの如くである。

 文化財行政に関わり合ったから云々ではなく、社会のあらゆる分野で目や耳にする機会が増えた「文化遺産」という言葉そのものが、何やら胡散臭い感じがしてならないのである。滅多矢鱈に古いものを持ち出して、「文化遺産」というレッテルを貼ることで人々の関心を惹こうとの思惑が透けて見える気がしてならない。

 そもそも文化とは何ぞやの議論が必要なのだが、どこかの大学の講義ではないので敢えてその議論は遠慮しよう。しかし、昨今の巷に流布する「文化遺産」の解釈は、何やら一元的に古いものを指すようである。そこに見え隠れする思惑の一つは国や都道府県、果ては市町村段階まで、とにかく古いものを見つけ出してレッテルを貼ろうとの行政側の安直な手法である。

 特に「文化遺産」と名がつけば世界から観光客を呼べるとの"助平根性"があからさまで、往年の竹下政権による"一億円町興し"にどこか似ている。中身の価値を問うのではなく、とにかく話題作り最優先で、"結果良ければすべて良し"との風潮が蔓延している。見当違いの表現を敢えてすれば、怪しげな商品に巨額の宣伝費を投じて売りまくる現代商法そのものであるようだ。

 「文化遺産」と言えども"商品"らしいから、当然の帰結として"当たり外れ"が出る。ひとしきり話題になって当初は大勢の人を呼んだが、すぐに"飽きられて"誰も見向きしなくなったものも一つや二つではない。それらの「文化遺産」はその後どうなるのであろうか。その行く末を考えると何やら背中がゾクゾクする。

 人の心は移ろい易い。有形・無形を問わず遺産は須く「滅び行く」運命にある。その「滅び行く様」がそもそも文化なのであって、永久不変の文化など本来存在しない。人間や生物の存在同様に、やがて時の彼方に消えてゆくのだ。誰もそれを留めることは出来ないし、留めることが出来ないから文化なのである。

 文化的価値は人間の生存に深く関わるから、厳密に言えば人それぞれに評価が分かれる宿命を宿す。万人に等しい文化など本来は存在しないのである。にも関わらず"猫も杓子も"の観がある昨今の「世界文化遺産」ブームは、冷めた目で見れば誠に奇っ怪で有り、言い換えれば"訳が判らぬ現象"の代表格だ。

 現代は豊かで便利な時代だと評されている。悪口を言えばその豊かな時代を反映して"猫も杓子も"大学へ進学する時代でもある。高学歴社会だと持て囃されているが、高学歴の中身は至ってお粗末のようにお見受けする。何のために学び、学んだことが身について、それが自分や社会のために役立っているか。

 今や「世界文化遺産」も随分"安売り"されたものである。滅法数が増えて観光産業のポスターやチラシの数は"うなぎ登り"だ。その中身も掛け値なしの文化的価値ではなく、目新しさを売り物にする"商品"の宣伝そのものだ。誰も真正な価値に目を向けることなく、ひとときの風情に触れて通り過ぎるだけである。

 古いものだけが文化遺産なのでは決してない。文化財のイロハを忘れて狂騒に明け暮れても、それを豊かだとは決して言わない。その証拠に「世界文化遺産」を訪れる観光客の大半は、言ったら悪いが凡そ"文化と縁遠い国々の人々"で、その収益がこの国の国家財政の重要な柱になっている。これを皮肉と言わずして、何を皮肉と言おうか。