獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

寒い春と志村けん

 近年の天候は誠に気まぐれで、お彼岸前までは晴天続きで暖かい日が多かったのに、お彼岸が過ぎてからは一転して肌寒い曇天や雨の日が続いている。自然現象も人間社会同様に「自己中心主義」になったようだ。この世に存在する全てのものが、勝手気ままに動き出したらどうなるのだろうか。多分生きた心地がしない日の連続になりそうな、そんな予感さえある。

 人間世界は地球上の隅々までコロナ・ウイルスに汚染されて、懸命で必死の努力にも関わらず収束の兆しが見えない。己を過信して憚らない人間をあざ笑うかのようでさえある。毎日死者の数だけが積み上がり、この先どこまで拡散するのか、それさえも見通せない深刻な事態になっている。誰もが加害者にもなり、そして被害者にもなり得る由々しき状態が続いている。

 重病持ちの高齢者は出歩くなと言うが、辛うじて命をつなぐために通院せねばならない。"怪我の功名"よろしく自粛要請で電車やバスは幾分空いているが、何故か乗り合わせる乗客も殆どが同世代の高齢者である。恐らく私同様に通院を余儀なくされているものと拝察するが、比較的元気であった志村けんでさえ突然亡くなった。その恐れがないという保証は誰にもない。

 どうもこの人間世界は押しの強いタイプに有利らしい。慎みや恥じらいを知る思慮深い「良識派」向きには出来ていないようで、恥を知らずに私利私欲を剝き出しにするタイプの人間に味方するらしい。急逝した志村けんも時代に似合わぬ「恥じらい」を身に纏うタイプの「良識派」であった。改めて心よりご冥福をお祈り申し上げる。

 天候の寒暖と同じように、予期せぬ事態は突然やってくる。少しも面白くないお笑いタレントばかり増えて、自らの芸の未熟ささえ認識せず、逆ギレしたかのように客席やテレビの視聴者に歯を剝く"バカ芸人"がウジャウジャいる。それを面白がって歓迎する向きもいるので、世の中何がどうなってるのか分からなくなる。

 一時代前とは言わぬが、一昔前までの日本人は「恥」を知っていた。人前で芸を披露するに際して"照れくさそうに"、遠慮がちに人前を憚ったものである。つまらぬことをしている自分を恥じて、申し訳なさそうに慎ましく演じた。その代表格が亡くなった志村けんである。己の分を知り、決して押しつけがましく演じるのではなく、どこかに逃げ場のような優しい空間を持つ芸人であった。

 戦後から現在に到る長いお笑いの世界で、「古き良き時代」を一身に背負い続けたその足跡は傑出している。現在の若いお笑い芸人が100人で立ち向かおうとも、決して乗り越えられないヒストリーが彼にはあった。その意味で不世出の天才であったように思う。現在の若いお笑い芸人達は決死の覚悟で志村けんに学ぶべきである。芸とは何か、それは生きることそのものであると身をもって示した志村けんを、朝な夕なに学ぶべきだ。

 人の命は儚く短い。寒暖を繰り返す陽気もまた同様である。心地良い季節は決して長くは続かないことを、若い「芸なし」のお笑い芸人達は心と体に刻むべしだ。軽薄で無能なテレビに安住しようとしても、それは多分「夏の夜の夢」の如しであろう。過ぎ去る季節は来年になれば戻るが、亡くなった志村けんは永遠に戻らない。その現実を実感せねばならない。