獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

行く年来る年

 朝から快晴の大晦日になった。何はなくとも晴れた青空は気持ちが良い。昨日30日は雨の予報が東京多摩地区は小雪がちらついたそうだ。ガラス越しにベランダの向こう側を凝視したが、視聴覚に支障がある病人高齢者の目では確認できなかった。厚い雲に覆われた空からは雪がちらついても不思議ではない朝だったので、午後になって雲の切れ目から陽が差して青空が見えた時は、まるで子供のように嬉しくなった。

 そんな些細なことに驚いたり嬉しくなったりする日常だが、今年は非日常的新型コロナウイルスの出現で世界が揺れた。今もなお感染拡大を食い止められずに世界が右往左往している。去年の今頃にそんな1年を予想した人が居たであろうか。人間社会と人間生活は誠に何が起きるか予知できない。それでも政財官界は相変わらずだし、世界の終わりを訴える人も居ない。

 誰もが自分のこととして解決しようなどと思わない不思議な社会現象が、いつの間にか世の中に定着して「日常的な当たり前」になった。殆どの人が自己責任を棚に上げて、誰かが何とかしてくれると漠然と思い込んでいる。新型コロナウイルスには正義も不正義もない。善悪の色分けも出来ない。誰もが当事者なのに、誰もがそう思っていない。正体不明の"第三者"が居て、姿を現さずに"ほくそ笑んで居る"不気味な様相である。

 "火のないところに煙は立たず"と言われる。現在の新型コロナウイルス騒動は、私達が気がつかない内に蔓延した「現代社会の鏡」であるようにも思える。誰しもが知っている筈なのに、誰しもが本質に踏み込もうとしない"他人感覚"で、まるで浮遊しているように生きている。都合の良いことは自分に取り込んで、都合の悪いことには目を背けて見ないようにする。"自者と他者"を巧みに使い分けて、その間を瑕疵なく泳ぐ技術の鍛錬に忙しい。

 新型コロナウイルスに向き合う医療現場は悲惨である。誰もが目を背ける中で唯一の当事者に仕立て上げられて、自らの生死を担保に戦わざるを得なくなっている。立法府や行政の側の誰が例え1日たりともその現場に立てるだろうか。"自分事"として捉え得るか。幾重にも防護策を講じて、安全な場所で"屁理屈"を述べるだけなら誰にでも出来る。そんな「他人行儀」が大手を振って罷り通っている。

 過ぎ去るものへの追慕は未練である。善きにつけ、悪しきにつけ、2020年は今日で終わる。国中を湧かせた観があった2020東京オリンピック新型コロナウイルスで延期された。その結果が吉と出るか凶と出るかは未だ判らない。様々な荷物を積み残して2020年は暮れようとしている。最長不倒を延長し続けると思われた前安倍政権が突然終焉した。"史上最低"を欲しいままにしたアメリカのトランプ政権も短命の幕を閉じる。

 何がどうなって、どう変わっても、私がここに生きている事実は絶対だ。来年同じことを言える自信は更々ないが、若し万一生き延びたとしたらそれこそ奇跡だ。世界がどうであれ、自分の命をつなげるかどうかこそ私の真実である。全てに優先すると言って過言ではない。人間は誰しもがそんな人生と日常を生きている。終わりも始まりも「命」あってこそである。