獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

スマホとテレビ

 生き長らえて現代を生きている高齢者の眼には奇妙に映る現象が数多くあるが、中でも代表的なものがスマホとテレビだろう。スマホについては改めて言うまでもなく、現代生活の必需品であるらしい。老いも若きも電車やバスの中など、ところ構わず小さな画面に目が釘付けだ。子供から年寄りまで幅広く利用されているという観点では、これに勝るものはないようだ。

 「情報」という名の怪物が人間社会に取り憑いて久しい時が経過している。インターネットという便利な技術が開発され、それに便乗するグッズが数多く登場した。長らく主流だったパソコンに代わって、簡単に持ち運び出来てどこでも使える小さなスマホは、今や世界中の国々に普及している。

 キーボードがない分文字入力に難点があるが、短文のSNSが普及するにつれて必要最小限の言葉のやりとりが普通になった。気持を伝え合うのにも、特定の言葉や単語で用が足りる便利な時代になっている。便利である反面、物事を丁寧に見たり聞いたり伝えたりする人間社会本来の基本からは遠くなった。

 人間生活の基本である「言葉」に関しても、幅広い表現や感情の奥を伝え合うことが困難になり、粗雑であるとされてきた表現を用いることに抵抗感が薄れている。特に小中学生にまで広く普及しているため、短文化が最早一つの文化として定着している観さえある。日本語も英語もその他の言葉も、その違いが反古にされる"単一化現象"を引き起こしているようだ。

 便利であればあるほどその是非については様々な形での議論を必要とするが、スマホについてはその議論が深まる前に普及したようで、スマホの機能に人間生活を合わせるような逆転現象が見られる。オーバーに言えば機械であるスマホが世界を蹂躙して、地球上に生きる様々な民族を支配しているとさえ言えなくはない。

 仮定説で恐縮だが、ある日突然世界中のスマホが使えなくなったらどうなるであろうか。少なからぬ国と地域でパニックが起きて、行政に委ねられる公共サービスや交通網は支障なく機能するだろうか。社会のあらゆる分野に影響が及んで、日常生活そのものが脅かされはしないか。スマホ文化の領域を超える"社会不全"を引き起こしはしないか。

 テレビは若年世代の"テレビ離れ"が起きて、今や認知症高齢者の必需品に成り下がりつつある。内容が理解出来ようが出来まいが、他にすることがないから朝から晩までテレビに囓りついている。遠慮せずハッキリ言えば、画面に何が映っていようと関係ないのである。何かが画面で動いてさえいれば、それが判るだけで自分が生きていることを確認できるのである。

 無差別に有名人が好きで、どこかのチャンネルで見た顔が登場すれば拍手で迎える。それに応えるように公共放送NHKの番組は"芸が出来ないお笑いタレント"を、各種取り揃えて次々登場させている。再放送に次ぐ再放送でも、前回見たのを忘れているから苦情を言う高齢者は殆ど居ない。低俗ならず"低脳"番組ほど歓迎される所以である。

 全国のテレビが仮に映らなくなっても、スマホに比べると社会的影響は遙かに微少だろう。テレビがあろうがなかろうが、日常生活に大きな影響はない。視聴者離れが著しいにも関わらず、視聴者を無視した4K、8Kの開発に熱を上げて、視聴料の徴収に躍起となっているNHKは最低の"笑いぐさ"である。CMだらけの民放に至っては、今や認知症高齢者の「伴侶」の観が濃厚だ。

 スマホとテレビはそれぞれに必要とする世代には欠かせないグッズだ。それが転じて"クズ"にならぬよう、精々ご用心である。人間社会はいつの間にか奇妙な時代へと突入したようである。長生き出来たことが良かったのか、悪かったのかは、まだ少し先へ行かないと分からないようだ。