獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

市町村大合併と地名

 高齢者ゆえの特有現象か否かは定かでないが、テレビや新聞のニュースを見ても土地勘が得られない。報じられている地名がどこか分からないのである。司馬遼太郎が「坂の上の雲」に書いた誠に小さな国なのに、自分が生まれた土地や現在住んでいる市区町村の隣町さえ覚束ないのである。

 東京は幸い例外的に合併騒動の蚊帳の外で遣り過ごせたので良かったが、全国の主要大都市とて例外ではなかったようである。都道府県名は変わらないがその次に連なる市町村名が曲者で、全く目や耳に馴染みがない地名が数多く誕生した。改めて指摘するまでもなく地名は、その土地の歴史や文化、伝統などを伝える大切な"よすが"である。

 ただ単に経済効率のみで、長い歳月によって積み上げられた「大切な命」が葬られて良いものだろうか。そんなに効率至上主義なのであれば、私たち人間の名前もその時々の都合で勝手に変えれば良いことになる。人間が生きた足跡が歴史なら、そこで営々と繰り返された生活は文化そのものだ。その土地に生きた人たちだけが知り得る、持ち得るものは決して少なくはない。

 現在もなお古来から続くその土地の祭りのために、遠く離れたところから集まる大勢の人たちが居る。たった数日の祭りのために、1年がかりで家族全員がそれぞれの祭りを迎えて終えるのは何故か。親から子へ、そして孫へと受け継ぐ伝統とは何か。例え懐具合は多少寂しくても、祭りのために仕事を投げ出してまで奉仕に汗を流すのは日本人だけではないだろう。

 祭りはイコール「地元愛」そのものだ。別にその祭りが取りやめになっても、人々の生活に大きな支障はない。特別迷惑を被る人たちもごく一部だ。それでも若し突然祭りを中止すると言ったら、地元民は快く応じるだろうか。利害の有無に関わらず多くの人が異を唱えるだろう。それは永く親しまれてきたその土地の文化そのものを失うことを意味するからだ。

 誰しもが自分が生まれた土地に特別の愛着と関心を持つ。誇りを得られようが得られまいが、生まれた土地を悪く言う人は稀だ。血を分けた親・兄弟同様に離れ難い、忘れ難い想いがあるだろう。それらが突然縁も所縁もない名前に変えられたらどう思うだろう。それと同じ現象が「平成の大合併」の名の下に全国各地で一斉に行われた。その土地に住む人はやがて慣れるだろうが、地名はその土地に住む人だけのものではない。

 かつて地方史研究のための学術書を普及させるため、2年余を費やして全国各地の研究者を訪ね歩いた。ゆえに各地の風情や人間模様は、その土地ゆえの味と共に忘れ難い。一歩その土地に足を踏み入れると、日頃の東京の便利さを忘れる。日に数本のみのローカル線の列車を待ち、乗り損ねたら歩く以外の方法がなくなるバスを長く待った。

 稲穂が風に泳ぎ、道ばたの畑には色とりどりの野菜が実っていた。自転車で通り過ぎる中学生達の賑やかで元気な声が響いて、陽が西に傾いた浜辺は「夕凪」で波が静かになった。季節を色濃く見せる各地に、それぞれの春夏秋冬があった。その"それぞれ"が地名という名の文化だ。いずれにも人が生きて、そして死んでいった証として残された遺産である。

 現在私たちは便利で効率的だという理由で多くのものを失い続けている。そのどれもが人間の命同様に、一度失ったら再び蘇らないのである。郷土に愛着を持てずして、どうして国を愛せようか。日本人が日本文化を顧みずして誰が顧みるのか。テレビや新聞のニュースに接する度そんな思いを強くしている。

 コロナウイルス感染拡大の非常事態宣言が解除されて、第2波が目の前に迫っているのに豪雨災害を横目に見て"大いに遊びましょう"と言う。利害と効率最優先で、どれだけ多くの貴重な遺産を失えばこの国は気づくのだろうか。得た利益は一瞬で消えるが、古色に輝く風土や文化は即座には得られないのを知るべきだ。

 今日もまたどこにあるのやらさっぱり見当が付かない地名がニュースに登場する。何やら遠い外国の出来事のように思われて親近感が湧かないのは、病人の重症患者だからなのであろうか。五感で体感した日本が次第に遠くなるのを実感している。グローバル化が声高に言われて、日本人のための日本は最早過去の幻と化したのであろうか。