獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

白昼夢の「中華大帝国」

 折角の4連休が台無し状態だ。折からの豪雨で各地で災害が相次ぐし、一旦非常事態宣言が解除されたコロナウイルス感染拡大は収束の兆しどころか第2波到来の様相だ。それでも政府は万全の予防策を講じて、大いに飲食や旅行に出掛けましょうとキャンペーンを展開している。命は何とか保証するから大いに遊んで下さいとの趣旨だ。

 奇妙な時代だからどんな奇妙な現象が起きても不思議ではないが、何やら首を傾げざるを得ないことが"てんこ盛り"状態だ。それでも世界は平和で、大国アメリカと中国がお互いに挑発し合って小競り合いを演じても戦争は起きない。お互いに世界最強を自認する強大な軍事力を持ちながら、それが活用されず"宝の持ち腐れ"状態を続けている。

 老い先短い重症の病人高齢者から見ると、つまらぬ小競り合いは止めていっそ派手にドンパチやってくれた方が気分的にすっきりする。関係国、周辺国を巻き込んで第三次世界大戦でも起きないかと内心大いに期待している。あらゆるものが停滞して動きが取れなくなっている世界を覆っているのは、コロナウイルスだけではない。

 人口の減少と爆発が同時に起こっている地球上は、文明の進歩に人間が追随できない現象ばかりがやたら目に付く。科学技術の発展が逆に人間性の劣化を招いて、"鈍感人間"が世界に蔓延している観がある。屁理屈を捏ね回して自らを正当化する"小賢しさ"ばかりを身につけた低脳指導者が増え、「明日」を見通せない混沌とした状況が続いている。

 「歴史は繰り返される」と言われるが、前世紀や前々世紀と人間の本質は何も変わっていないのではないかとの疑問を禁じ得ない。相変わらず宗教の対立は健在だし、人種差別も未だに日常茶飯事だ。一見変わったように見えても、その実は何も変わっていなくて一触即発の可能性は必ずしも遠のいてはいない。

 延々と雨が降り続く4連休に窓の外に目をやりながら、さて明日はどうなるかと予想したりしている。すぐ隣には頭が可笑しい指導者が率いる頭が可笑しい小さな国家がある。共産主義世襲という本来あり得ない国家体制が現実に存在し、その狂信的信条に付き従う"信じられない国民"が生きている。世界の不思議は想像を遙かに逸脱して、その行方は誰にも分からない。

 この混沌とした停滞を払拭するのは容易ではないだろう。生易しいことでは解決は覚束ないように思えてならない。多少興味本位な願望を上乗せして考えれば、歴史の教訓が物語るように最終的には殺戮に到らざるを得ないだろう。お互いがお互いを滅ぼし合う以外の解決法はないのである。最終局面に到れば理想論など何ら用を為さない。

 世界の各地で関係国を挑発して止まない中国は、毛沢東共産主義革命によって台頭した貧しい農民層の子孫達が「中華大帝国」を夢見ている。世界の覇権を掌中にしたくてウズウズしている。一党独裁共産党幹部が戦場に出ることはなく、絶対安全を保証されて机上のゲームに興じるだろう。香港や台湾の騒動など飛び交う蚊の羽音に過ぎない。いつでも踏み潰せるのだ。

 その中国に対峙する超大国アメリカは勇気を失って久しい。図体は大きくても結局何も出来ない。少し"おつむが弱い"指導者が大衆に指示されて登場して以来、「古き良きアメリカ」は遙かに遠い夢の彼方へ消え去った。"世界の警察官"など今や夢のまた夢だ。少し"おつむが弱い"指導者は「朝令暮改」で意思が定まらず、戦争の火ぶたを開ける度胸はどこを探しても見当たらない。

 世界の良心と良識を自認してきた欧州諸国の多くは、自らの足元がふらついて定まらない。アジアや太平洋は遠い対岸で、好んで降りかかる火の粉を浴びる冒険に踏み出すことはしないだろう。先進国が気づかずに見過ごしてきた中国独自の覇権主義は、今や大小数多くの途上国に資金援助の根を張っている。国連の場で拒否権ばかりでない多数決の実力行使が現実味を増している。

 夢想に過ぎないと看過されてきた「中華大帝国」がじわじわと現実味を帯びている。"爪を隠した狼"の指導者の下で、手先となる"黄色い豚"が率いる地続きの隣国と共に、白日夢の覇権を目指して静かに歩み始めている。世界が気づいた時には大方の利権を独占されて手も足も出ず、口先で騒ぎ立てる以外抵抗の術を失っているだろう。

 もう既に銃弾が飛び交うことがない戦争は始まっている。豊かさという温湯に慣れ親しんで感覚が鈍化した目や耳では確認できない戦争が、人知れず裏舞台で進行しているのかも知れない。奇妙な時代の奇妙な現象は、そうして多くの人が知らぬ間に結果のみを残して消え去るのかも知れない。当たり前のことが当たり前である保証はどこにもないのである。

 人間が他の人間を消し去ろうとの野望は、常に人間の心の奥底にある。時代によってそれが顕在化するか否かの違いで、それぞれの時代の様相と色合いが異なってくる。目の前に存在していた筈の「当たり前」は当に色褪せて、あり得ないと思っていた「非現実」がある日突然「当たり前」に変わる。その日が近づきつつあるのかも知れない。

 雨の日の白昼夢は全体が霞んでいて良く見えない。想像力の扉を開けて垣間覗いてみるが、夢想なのか現実なのかが分かりづらい。その分だけ空想を逞しくせざるを得ないが、急に大いにあり得るとの確信が高まる。老い先短い重症の病人高齢者は多分見届けるのが困難であろうが、是非見届けたいとの思いが強くある。

 降り続く豪雨は色々なことを想像させる。時は夏で濡れても風邪を引く心配がないのが、せめてもの不幸中の幸いと言えるのかも知れない。