獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

蝉と鈴虫

 季節の変わり目は何某かの感傷を誘う。特に存在感が抜群の夏の終わりは格別だ。8月最後の日になって、明日から9月が始まるのだと思うと途端に何やら一抹の寂しさが湧き出るから不思議である。暑い暑いと言って、迷惑顔をしていたのは誰だったけと問いたくなるような変わりようである。

 陽射しが強い日中はまだ蝉君たちの大合唱が続くが、耳を澄まして聞き入ると真っ盛りの頃と僅かだが変化している。単色だった蝉の鳴き声が多種になって絶妙なハーモニーになっている。最後の絶唱が哀れを醸して胸に響く。夕焼け空から色が消えて夕闇が迫ると、今度は攻守ところを変えて鈴虫君たちの出番だ。

 私が住む団地は昼間草刈り機の音が響いて、歩道脇や樹木の下の草むらが綺麗に手入れされているが、夜になると短く刈り込まれた草むら全体からリンリンと響く鈴虫君たちのシンフォニーが始まる。日が落ちて少し涼しさを増した風が心地よく通り抜けていく。遊歩道に設置されたベンチへ腰掛け、遠くに見えるビルの灯火に目をやりながら、暫し鈴虫君たちの絶唱に聞き入る。

 左程標高が高いわけではないが、丘陵地の丘の上は何故か蚊がいない。8階の我が家は大きなガラス戸を開け放っても蚊の侵入を受けたことがない。その代わり目の前の森から大小様々な虫君たちの訪問を受ける。やむを得ず網戸を閉めて生活しているが、時に閉め忘れたりするとそれはそれは賑やかになる。虫君たちの一大社交場と化すのである。

 大都会東京にも目を凝らせば驚きの自然が残されている。日々の暮らしに追われて人の眼が届かなくても、大小様々な生き物たちが息づいている。綺麗な花は人目を引くが、眼に触れる機会がない動植物もそれぞれに命をつないでいる。ひたすら先を急ぐ人生で、私たちは自分の足下で生きる命を忘れた。自分だけが生きている気分になる驕りを身につけた。

 一際目立っていた蝉君たちの鳴き声が止み、代わって鈴虫君たちの大合唱が始まっている。私たちが気づこうと気づくまいと、自然は与えられた摂理を淡々と刻んでいる。驕り、増長した人間の欲望だけが、摂理に背き続けている。それでも一向に気にせず、まだ蝉と鈴虫の競演は当分続きそうだ。