獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

好き嫌い人生

 人間生きていれば色々な好き嫌いが生じる。人それぞれなので各人各様だと思うが、理屈をつけても善悪や正邪と好き嫌いは一致しないようだ。味と言っても何も食物に限った話ではない。人間同士の場合もあろうし、生き方や職業についての場合もある。暮らしそのものもそうだし、暮らしに必要な住まいや道具類から着る衣服に至るまで、"好き嫌い"は際限なく広く多い。

 一番顕著で明瞭なのが何といっても「食物」で、誰かに教えられたり、押しつけられたわけではないのに、知らぬ間に"好き嫌い"が分かれる。あくまで個人的領域なので、全ての人が平等に「美味しい」と感じるか否かはケース・バイ・ケースだ。日本人を対象にして考えればほぼ万人向きなのがラーメンやカレーだろう。嫌いだから絶対に食べないという人にはまずお目に掛からない。

 但しである。総論的には「好き」であっても、各論段階になると「嫌い」に組みする人が出てくる。例えばラーメンでも"昔ながらの中華そば"を好む人も居れば、こてこての"濃厚豚骨スープ"を好む人も居る。更には"汁なしラーメン"を好む層まで実に多彩である。スープの種類も王道の「鶏ガラ醤油」から「味噌味」「塩味」「カレー味」まであり、それが更に"激辛"や"煮干し味"などに分かれるので、とても一様ではない。

 一口にラーメンといっても実際に供給されているものは種々雑多で、麺の種類も"極細"あり、"極太手打ち"ありで、その中間に位置づけられるのがスタンダードな"中細麺"ということのようだ。麺の断面も丸あり四角ありで、"平打ち麺"と言われる平べったい「名古屋のきしめん」のようなものまである。スープの絡み具合や食感の違いなどそれぞれなので、甲乙を競うなど文字通りの"無駄の効用"だ。

 暮らしに欠かせない食物の中のラーメンだけを見ても多種多彩なので、人間の暮らし全般についての「好き嫌い」に至っては"気が遠くなる"ほどだと合点出来る。最近話題になったアメリカ大統領選挙でも、皮肉を言えば「嘘つき」と「ホラ吹き」が競っただけで、どちらが勝ってもハッピーにはならないことをアメリカ国民が一番よく知っている。政治ゆえ利害が絡みラーメンのスープのようにはいかないが、最終的には「好き嫌い」で決着する。

 超大国アメリカの大統領選にしては、新味がない年寄り同士が罵り合うお粗末振りで、言ったら悪いが最先進国の面影などどこにも見当たらない。両候補者を好きになれという方が土台無理な話だとお見受けした。「善悪」や「正邪」が人目を憚らず堂々と表舞台へ登場する辺りは、どこかの国の「紅白歌合戦」に似た「バカ騒ぎショー」そのものだった。民主主義が"疲労困憊"して来ると権利が乱脈になり、決め手は「好き嫌い」だけになる。

 「紅白歌合戦」が出たついでに言わして貰うが、今年もまた出場メンバーが発表されたようだ。見ても見なくても視聴料を強制徴収する国営放送(?)が、毎年鳴り物入りで大宣伝をする「バカ騒ぎショー」そのものが理解できないが、この番組に出演するしないが芸能人としてのランキングに関係すると聞くと尚更腹立たしい思いが強くなる。国営放送(?)NHKとは何者かを問わねばならなくなる。

 例え話で恐縮だが、どこかの新聞社が勝手に玄関の新聞受けや郵便受けに新聞を投入し、月末に集金に来たらどうだろう。勝手に新聞を投入された顧客は笑顔で代金を支払うだろうか。購読意思がなく、無断で配達された新聞を読まずに玄関先へ山積みしてあったとしても、正当な料金支払い義務が生じるのだろうか。有り体に言えば殆どの顧客は腹を起てて支払いを拒否するだろう。

 新聞は人間が労力を使って配達する。国営放送(?)NHKの電波は目に見える労力なしに勝手にばらまかれている。本来ならそれを気に入った人だけが料金を支払えばよいものを、国営放送(?)NHKには古びて赤錆びた「放送法」という有名無実(?)の法制度がある。この法制度を"伝家の宝刀"にして、格差社会の弱者からも容赦なく視聴料を徴収している。然もその難作業は自ら行うことなく、民間業者へ"丸投げ"である。

 敢えてNHKの悪口を言う気はないが、物事の筋道として料金を強制徴収している公共放送ならば、"眉を顰めたくなる"類いの番組を何ゆえ"くつろぎタイム"に長時間放送するのか。その低俗番組に出演させるメンバーの動向が、何ゆえニュース番組に登場するのか。殆どの番組にお笑い芸人やタレントが出てくるのは、如何なる理由かを説明する義務がある。それなくしての視聴料強制徴収は正当性に欠ける。

 "好き嫌い"が世の常ならば、問答無用で無理矢理支払わされている視聴料に腹立たしい思いをしているユーザーが居て当然で、公共放送NHKであるならばきちんと筋道を立てて説明すべきだ。国民が納得してこその公共放送で、腹立たしく不愉快な思いをして視聴料を支払わされている国民は「その他」扱いか。歌詞も曲も書けずに他人任せの歌を"ご披露"するため、爬虫類のカメレオンの如く派手な衣装に身を包み、腰を振り肩を揺らす面々を見るのが「一年の総決算」だとは誠に"片腹痛い"。

 「バカ騒ぎショー」を楽しいと感じる人も居れば、騒がしいだけの"迷惑騒音"と感じる人もまた居る。"好き嫌い"の宿命が欠かせない低俗番組に多額の費用を投じる理由を説明出来ないならば、納得できない視聴者には視聴料を返金すべきだ。時代遅れで現状にマッチしない「放送法」は廃止して、国民が納得する合理的制度に改正するべきである。赤錆びた法律と制度に安住し、"役立たず"の会長を次々替えて高額退職金を支払う愚はもう沢山である。

 物言わぬ国民にも"好き嫌い"はある。不愉快が昂じれば不信になる。その連鎖を生み続けて反省なき公共放送NHKとは何者か。政府と芸能業界に奉仕する"化け物放送機関"でないと誰が断言できようか。プロパガンダ放送はいつも、国民に気づかれないまま浸透する。"低脳低俗"の先に待つのは何かに、どれほどの国民が思いを致しているだろうか。"好き嫌い"は単なる生理的理由だけではない。生理的に許せる範囲内であれば、むしろ幸せである。

 "好き嫌い"に端を発する世の出来事は無限にある。私は安倍前総理の白々しい「鉄仮面」から透けて丸見えの"嘘"に感嘆した。たまたま目にしたNHKの歌番組に出て来た氷川きよしという歌い手に"鳥肌が立った"。爬虫類そのもののご面相とど派手な衣装、腰を振り肩を揺する仕草に吐き気を催した。一瞬カメレオンが出ているとさえ思った。以来生理的に受け付けないので歌番組は敬遠した。

 人間の感性は種々雑多である。感じる度合いによって愉快と不愉快が分かれる。一杯のラーメンや一皿のカレーに無上の幸福を感じる場合もあれば、私のように安倍前総理や氷川きよしを目にしただけで生理的嫌悪感を覚える人間も居る。愉快と不愉快程度なら許せても、幸せと不幸の段階になれば簡単に許容できない。発展すれば味方と敵に分類せねばならなくなる。ゆえに争いの根本は常に"好き嫌い"が切り離せない。

 単なる"好き嫌い"と思って軽視すると、時には思い掛けない災難に出喰わす場合がある。大小様々ある"好き嫌い"だが、それゆえに人生が楽しくなったり、詰まらなくなったりもする。一度自分の"好き嫌い"を見直してみて、今後どう付き合っていくかを考えてみるのも面白いものだ。多少多災であっても、多彩であるほど人生は楽しい。