獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

時代から消える「丁寧」

 コロナ禍が一段と深刻さを増す現在は、物事万事から「丁寧」という言葉が消えつつあるようだ。何事も新型コロナ・ウイルス感染拡大防止のためという大義名分の前に、緊急時に用いられるスピードと効率が優先されて、本来あるべき「丁寧」に目をつぶっている観が強い。コロナの猛威が長期化する中で、「丁寧」を欠く対応が副作用として社会のあちらこちらに定着して、やがてそれが"常識化"する気がしてならない。

 新型コロナ・ウイルスの感染拡大が始まる前から、現代社会は「効率」優先へ舵を切って形振り構わぬ「利益追求」に狂奔されている。"理"を考え、"義"を全うすることが赤錆びた時代認識になり、人間本来の「人間らしさ」はフィクションの世界で見かける戯曲になった。創作された"人間らしい物語"に人々は感動して、公開の場は長蛇の列を成すのである。

 効率と利益が優先される社会では、それと相反する「丁寧」が邪魔になる。肯定性が希薄になってむしろ非効率的な"排除するべきもの"になる。丁寧さの根本は「思い遣り」なので、"親切"とか"気配り"も一緒に排除するべきものに位置づけられる。人間が人間として人間らしく生きるために、本来欠かせぬ要素が市場経済の「効率」によって追い詰められている気がする。

 「丁寧に誠を尽くす」という日本人本来の"日本人らしさ"を象徴するのが「丁寧」だと私は思っているので、社会のあちらこちらで散見する「丁寧を欠く事象」には、寂しさを超える"腹立たしさ"さえ覚えている。日本人が日本人として生きる第一義の日本語然りである。必要最小限という"効率"が、日本語が本来持つしっとりとした情緒を消し去り、無味乾燥した用件だけを伝えるだけの機能言語になっている。

 人間同士が触れ合う接触機会がコロナ禍で否定され、学校教育さえIT化されてパソコンに依存している。各世代の老若男女がそれぞれに孤立化し、家族という生活基盤さえ関連性や連携が薄れようとしている。人間が人間としての触れ合いが遠のけば、言葉は益々情緒や風情を失い、生身の血の熱さを伝えられなくなる。やがて石ころのように、無用な邪魔ものと認識されるようになる。

 「丁寧」を尽くすのにお金は掛からない。少しだけの"思い遣り"があれば誰にでも出来る。例え非効率であろうと相手を思い遣り、自分の気持ちを省略せずに伝えれば、生きた人間感情が伝わる。生身の喜怒哀楽が伝わって相互に共有できるのである。「共感」が単なる言葉上のことではない、心身に実感できる"感動体験"になる。言葉の短文化は自分自身が持っている大いなる可能性を否定し、それらの機能や能力を放棄するに等しい。

 物事を「丁寧」に行うためには少しだけ思慮せねばならない。どうすれば相手の心に響きを伴って伝わり、余韻を引いて残るかである。自らの心にも大小様々な波紋が拡がるだろう。それらの一つ一つを見詰めることでより相手と、また自らとも距離が近くなる筈だ。一見無駄に思える情緒や風情は、永い年月を経て日本人が日本人であるために蓄積してきたもので、民族遺産であると同時に人類遺産でもある。

 言葉のみならずその表現についても、時代が置き忘れてきた「遺産」が数多くある。単に"古き良き文化"に留め置かず、大いに活用して磨き上げれば「得も言われぬ輝き」を放つだろう。人間生活と人間個々の光沢は、各人が少しだけ努力することで得ることが出来る。「丁寧」に物事を行う意義を、コロナ禍中に覆われた時代だからこそ一考してみては如何だろう。

 何事も失われてから気づいても手遅れということがある。そうならないためにも、より「丁寧」であるべきだと時代に要請したい。市場経済の論理とは相容れないが、だからこそ熟慮に値すると私は思っている。