獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

再び日本語について

 日本人の一人として、母国語の「日本語」に拘らなければならないのを恥じ入らねばならない。この世に誕生した時から身近にあって、誰に教えられるともなく身につけてきた日本語が怪しくなっている。日常生活の場面だけでなく、人間としての存在感が問われる根底まで、あらゆる場面で"おかしな日本語"に接する。

 人間生活の習性で多少おかしなことも、繰り返し行っている中に"可笑しい"と感じなくなる。俗に言う「慣れ」なのだが、事と次第によって「慣れ」て良い場合と、「慣れ」て"習慣化"することが好ましくない場合とがある。現代社会は近代資本主義の市場経済が善し悪しを超えて蔓延している。「自由」の代名詞のように珍重され、そこから得られる「利益」がすべての価値の源泉だ。

 科学技術が高度に発展を遂げた21世紀に到って、"遮二無二"「金儲け」をすることが正当化され、人間社会から「理性と倫理観」が消えかかっている。「人間の尊厳」はただ生きていることのみになり、根本命題である「どう生きるか」が問われなくなった。時代の流れは無情で、些細な人間感情を遠慮会釈なく押し流す。そんな時代の到来で、人間同士を結びつけるコミュニケーション手段も激変しているようだ。

 人間生活に不可欠の「言葉」さえも"商品化"される時代である。"利益"という名の「絶対善」に弄ばれながら、時代の激流に揉まれて「良心」という基軸が失われようとしている。日本人の暮らしに不可欠で、日本人の"日本人らしさ"を象徴する「日本語」が、日本人の生活から消えかかっている。そのことに思いを致す人々が、この時代にどれほど居られようか。

 言葉を失ったり、変化させたりした場合は、全体を構成する「文化」そのものが激変する。世界の歴史がそれを教えて余りあるが、高学歴社会の割にはそのことが殆ど理解されていない。誰しもが目の前を流れ去る現象に目を奪われ、"来し方"と"来たるべき方"に目を向けようとしない。この表現一つを例にしても、多くの人は「過去」と言い、「未来」と言うだろう。それが"当たり前"の日本語だと信じて疑わない。

 多様性という言葉を頻繁に耳にするが、その意味を嚙み砕いて理解されている方々がどれほど居ようか。小難しい言語学を紐解かなくても、日本人が日本人の生活と主体性を放棄しなければ、私たちの日常生活は文字通り「多様性」に満ちている。敢えて悪口を言えば実に「回りくどい」ほど多様性に満ちている。その「回りくどい」ほどの多様性を秘めているのが「日本語」だ。

 奇妙な日本語の代表例が「敬語」と「謙譲語」だ。言葉や文章を職業とする皆さんにも例外はないようだ。唯一の公共放送NHKのアナウンサーにも、凡そ言葉を職業とする人とは思えない若い人たちが多数いる。"アナウンス効果"という言葉があるが、可笑しな言葉や可笑しな表現も、繰り返し聴かされると「慣れ」が昂じて不自然でなくなる。その類いが公共放送NHKで大手を振って通用している。

 一昔前、二昔前までは、「芥川賞」と「直木賞」は我が国文壇の最高峰と信頼されていた。その「芥川賞」と「直木賞」が利益至上主義の経済社会で"様変わり"している。世の中に数多くあって憶えきれない「○○大賞」と変わらない、"量産権威"の一つになった。"売る"ことと"売れること"が絶対条件で、「文学性」などは問われなくなった。それだけ言葉の重量感が乏しくなり、「日本語」がバーゲンセールの対象になっている。

 言葉が曖昧になることは、私たち日本人の生活が曖昧化していることと無関係ではない。長じては「日本文化」そのものが怪しくなることを意味する。いつの時代にもその時代の「良心」や「常識」があった。基軸として揺るがない精神性が存在した。日本人が日本人であるという極めて単純な規範があったのである。それらの"当たり前で普通のこと"が見失われようとしている現代社会が、どうして"豊か"だと言えるのだろうか。

 日本人が日本人として「当たり前で常識的」と信じれる時代軸を、「新型コロナウイルス感染拡大第3波」で"外出自粛"を余儀なくされる今、他人任せにせず考えてみては如何だろうか。誰かの精ではない自分自身の足元を見つめ直すきっかけになれば、それはそれで些少ではない収穫になると思うのだが……。

黄葉前線と「新型コロナウイルス」

 我が家の目の前の天然雑木林全体が黄色くなった。早々に葉を落として裸の枝を晒している木々もあるが、執念深く緑を残している木々もあり、隙間がない密林状態の森は様々な色が混じり合う多色模様の絨毯のようだ。風が吹く度にチラチラと枯葉が舞い、その中を鳥さんたちが気忙しく飛び交っている。遠景となる隣県神奈川の丹沢山系が薄青いシルエットになって鎮座し、晴れた日の空に雲は見当たらない。

 この景色だけ見ていると例年と変わりないが、地上で展開されている人間生活は今年大きく様変わりした。「新型コロナウイルス」という微細な細菌が急速に猛威を振るって、驕り高ぶる人間社会を根底から揺さぶっている。「万能」という言葉を盲信して、自らを省みることを忘れた人間社会は、自らの能力が決して「万能」ではないことを改めて痛感させられている。

 本来は醜い側面を数多く有する人間の欲望は、一旦目覚めると際限なく拡大し増殖する。果てしがない「満足」を得るために、更に別の欲望を呼び込んで縦横無尽に拡散する。人間生活の規範や倫理観を押しのけて、醜悪な牙を剥き出しにする。可細い人間の理性は至る場面で立ち往生し、暴走する欲望を留められない。それはそのまま、現在私たちが否応なく接している「新型コロナウイルス」に酷似して居ないだろうか。

 私たちは現在肉眼で確認することが出来ない極小の細菌に脅かされている。素人には手に負えないので、専門家と呼ばれる研究者の懸命の努力を待つしか手段がない。けれども殆どの人は目の前の現実に目を奪われていて気づかないと思うが、若しかしたらこの「新型コロナウイルス」は、私たち誰もが持つ「欲望」そのものではないかという気がする。気づかないままに現実の生活で生み出し続けた「副産物」なのではと、疑わざるを得ない。

 自らが知らぬ間に生み出した猛威に立ちすくみざるを得なくなっている人間社会は、各自がそれぞれ自分の足元を見つめ直さねば退治するのが困難だろう。気がつかないうちに私たちは欲望の赴くまま、自分で自分の首を絞めては居ないか。小賢しい理窟を並べ立てて理論武装し、自ら手を汚すことなく思いのままに、自分の生活をコントロール出来たと勘違いしては居ないだろうか。

 揶揄は揶揄を呼び、いつしか仮定が現実に化けて巨大な姿を現す。計画性という名の「正義」が木っ端微塵に吹き飛ばされ、突然現れた「結果」が現実になる。人間は無力で為す術がなく、巨大化した現実の前にただ右往左往するだけだ。架空だと思っていた物語が架空でなく、紛れもない現実になって目の前にある。少し頭を冷やして考えれば、誰しもが気づくであろう単純明快なSFトリックである。

 黄色く色づいた目の前の森に目をやりながら、何とも哀れで滑稽な人間社会を思った。
自分もその一員であることの重さが身に堪えた。時折口にする「人間の尊厳」て何だろうと考えた。自らを過信して憚らない人間の存在そのものが、若しかしたら「新型コロナウイルス」の正体ではないかと頻りに思えた。午後の太陽が角度を増すに連れて、部屋の中へ差し込む陽射しが長くなった。ドボルザークの「チェロ・コンチェルト」が鳴り止んだ。

NHKの日本語に違和感

 毎日のように視聴している公共放送NHKが可笑しい。以前から気になって再三指摘しているが、ニュース番組でのアナウンスが常識を欠いている。特に若い女子アナの言葉遣いが「滅茶苦茶」だ。長い歴史を持つ巨大組織で、数多くの管理職職員が居る筈なのに、誰もその「常識外れ」に気がつかないらしい。それでも視聴料だけはしっかり強制徴収しているのだから、公共放送とはなんぞやを問わねばならない。

 折からのコロナ禍で連日テレビ画面に色々な医療専門家が登場する。例外なく最前線に立つ医学部のベテラン教授や医師たちだ。そのベテラン教授や医師たちに対して、社会経験が乏しい若い女子アナが「○○さん」と気安く呼んでいる。自分と対等の友達扱いである。テレビ画面のこちら側に居る視聴者が恐縮するほど、「○○さん」を連呼する。言っている当人はそれがどんなに礼儀を欠くかに、全く気づいていない。

 日本語は世界に例を見ない多彩な言語である。同じ表現にも色々な類語や用語がある。特に謙譲語や敬語の類いが奥深い特徴がある。日本語とは何か、日本文化とは何かを、言葉を職業とするアナウンサーが理解していない。戦前・戦後の長きに渡って、NHKは正しい日本語の殿堂であった。その「様変わり」の酷さに唖然とする。会長以下の幹部職員は一体何をしているのか。

 広告・宣伝を目的とする民放の言葉の乱れは常で、無料放送だから好き勝手に言葉を弄んでいる。意味不明の「造語」が時代の寵児になって、新しい流行を産み巨大な利益をもたらしている。まるで掴み所がない雲のように、現れては消え、消えてはまた現れる。利益万能の市場経済下で言葉が「商品」になり、意味などどうでも良いかのような風潮が蔓延している。

 そんな時代を忠実に反映したわけでもないと思うが、公共放送NHKの"体たらく"が目に余る。少なくとも言葉を職業とするアナウンサーの再教育が急務のようだ。家庭教育が為されていれば小学生でも知っている「敬語」を、プロのアナウンサーが知らないでは済まされまい。古来日本文化は「恥」を重んじてきた。恥を恥とも思わない「無神経さ」は、日本人が最も忌み嫌った伝統さえも弁えていない。

 女子アナは顔が可愛くて、胸の谷間が見え隠れして、スカートが短ければ良いと勘違いされていないか。若いだけが取り柄ならば高校生や女子大生のアルバイトで十分用が足りる。民放と競争して「可愛い子ちゃん」ぶりを競うなら、視聴料徴収を直ちに廃止して「商業路線」に転じるべきだ。中身がない中途半端な「品位」は有難迷惑である。それにしてもこの程度で「公共放送」とは、呆れて二の句を継げない。

コロナ禍の師走

 冬らしい朝冷えの師走がスタートした。「師も走り出す」と例えられた繁忙期に突入する季節なのだが、今年は何やら「様変わり」が著しい。まずもってその筆頭に挙げねばならないのが「新型コロナウイルス感染拡大」だろう。人間世界を覆い尽くして"ほくそ笑む"観の病原体は、一体誰が何の目的で拡散させたのかの議論が見当たらない。物事は須く「原因」がある筈で、その土台を無視するが如き対応策は何やら「ちぐはぐ」の"そしり"を免れ得ない。

 その根本原因の究明から目を背けた世界の対応は、例えるなら民主主義の原則である選挙を認めないとする超大国の"おバカさん大統領"を見習っているかのようにさえ見える。世界の歯車が狂い始めて、時折逆回転も珍しくなくなった現代社会は、一体何を目指してどこへ進もうとしているのか杳として見通せない。「ちぐはぐ」が日常化して普通に化けているのは、どうやら我が国ばかりではないらしい。

 経済成長を金科玉条とする市場経済が急速にスピードダウンした。猫も杓子も金儲けに精出して、「利益」を得るためならば「何でもあり」が普通になった世の中で、その利益を生む「消費」が停滞し出した。目に見えない微少な細菌を前に、21世紀の人類社会は"手も足も出ない"様相だ。市場経済とは何か、近代資本主義とは何かが、今改めて問われている。"為す術を失った"人間社会は、「目暗滅法」の救済策に血道を上げている。

 人間社会は無限に人間を救済できるのか。その答えを用意している政治や国家が果たして存在するだろうか。諸々のイデオロギーが一様に色褪せて無力化し、21世紀に到って人間社会は「羅針盤なき航海」を余儀なくされている。一定のスピードを維持するのが困難になって、広い海原を漂流せざるを得ない事態に直面している。人間活動のすべてが"様変わり"を余儀なくされている現実に、尚も「経済成長」の夢を追い続けるのだろうか。

 新型コロナウイルス感染拡大が第三波の新局面に立ち至っているのに、その現実に目をつぶって消費を喚起する愚策を継続する政府に「時代の実相」が見えているか。市場経済が立ちゆかなくなって、「経済成長」が頓挫しているのに代替案を提示できない政治を、闇雲に政治と呼んで良いのだろうか。無差別に、無制限に、「何でもあり」の救済策を"ばらまいて"、そのツケは誰が払うのか。

 令和と元号が改まって2年、2020年は予定されていた「東京オリンピック」が開催されないまま終幕を迎えようとしている。過剰な期待感が莫大な投資を産み、投入した準備予算は取り戻す術がない。世界を席巻するコロナ禍で大幅な観客動員減が見込まれても、一度吹かれた笛は止めようがない。既定事実という巨大な化け物に変わった「東京オリンピック」は、架空と化した市場経済の「経済成長」同様に、着地点が見定まらない。

 コロナ禍の直撃を受けている医療現場の声が虚しい。数字合わせに夢中の政府や官僚発表から医療現場の声は聞こえない。語呂合わせの予算編成で皺寄せを受け続け、今や痩せ細っている医療現場の現実を大方の国民は知らない。政治は「諮問会議」を体良く利用して責任逃れを繰り返し、超高齢化社会の現実と向き合おうとしない。そんな政治を国民は躊躇なく選択してきた。誰も責任を感じずに国家予算という名の"カネ"が蠢いている。

 突然降って湧いた「新型コロナウイルス感染拡大」で世界が激震し、我が国も直撃を受けている。猛威という以外言いようのない事態だが、有効策が見い出せないまま2020年は幕を閉じようとしている。これこそ正に「師も走り出す」非常事態だ。急に口をつぐんで誰も口にしなくなった観がある「非常事態宣言」は、このまま宙に浮いて新年を迎えるのだろうか。

老々また楽しからずや

 長閑である。高齢者夫婦の日常は好むと好まざるとに関わらず、間が抜けて長閑である。当人たちにその意識は皆目ないのだが、当事者意識から離れて他人目線で眺めればいたって長閑である。やることなすことがスローモーで、立ち居振る舞いのすべてがヨチヨチと覚束ない。だけどそれが自分の責任だとはお互いに思わないので、それぞれに相手の精だと勝手に決めつけている。

 自分なりにキチンとやっているつもりでも、その結果は悲惨にやや近い。閉めたつもりのドアが開いていて、消したつもりのテレビや照明が点いている。時にはトイレを流し忘れたり、洗面所のお湯が出しっ放しなどが普通の生活になっている。電気代やガス代が幾ら支払われているのかなど顧みないので、良くも悪くも"使いっ放し"だ。クレジットカードで自動決済されている現代生活は、誠に便利で都合良い。

 年金が振り込まれる口座からクレジット料金が引き落とされるので、日常の買い物もカード払いで済ませている。その都度面倒な残高確認などせぬので、現在我が家にどれだけの資産があるのか全く判らない。幸い預金不足になったことはないので余計関心がなく、数ヶ月、ひどい時は1年以上銀行口座の記帳をしない。高齢者所帯は高額品の買い物がないので、放っておいてもこの生活が成り立っているから不思議である。

 世の中の大凡には殆ど関心がないが、食欲だけはしっかりあってお互い好きなものには目がない。とは言っても格別贅沢趣味はないので、ラーメンやたこ焼きで十分満足する。長年連れ添っているので、お互いの好き嫌いを熟知している。自分が好きなものを食べる際は、連れ合いにも好きなものを用意する。取り立てて配慮などという立派なものではないが、だから喧嘩になることがなく、その精で良くも悪くも50年以上長持ちしている。

 特に夫婦仲が良いわけではなく、お互いに加齢による難聴があるので、どちらともなく「言ったつもりが聞こえていない」現象が多発する。老々の常で万事がスローモーなので、すぐには気づかず数日して認識の"ズレ"が発覚する。些細な口喧嘩は毎度のことで、それさえも決定打の一言が聞こえたり、聞こえなかったりするので、真っ当な喧嘩になり得ない。お互いに言い分を口走るだけで"お仕舞い"になる。

 不幸中の幸いはお互い学生時分から一緒にいるので、大概の好みが似通っている。その精で特別気遣いしなくても、"何となく快適"さを保つことが出来る。善し悪しを別にしてお互いに相手が不在の日常を経験していないので、連れ合いが居なくなると考えたことがない。多分その時のショックは想像以上だろうと、お互いに何となく認識している。実際に片方に肺癌が再発して長くないと判っても、アッケラカンとして悲壮感など全くない。

 相変わらず旨いものを目の色を変えて探す日常だ。旨いと舌鼓を打つ度に笑顔になり、他愛ない幸福感に包まれる。高齢者につきものの「物忘れ」が進行度を早め、不都合なことはすぐ忘れる。ついでに不都合でないことも一緒に忘れるので、否応なしに生活が常に新鮮だ。「老け込む」暇など入り込む隙間がない。スローモーならではの快適さと不便さが同居して、最後は「笑い」のオチがつく長閑な毎日だ。

 「幸せ」というのは決して大袈裟なことではなく、こんなどこにでもある「当たり前」を言うのかも知れないと、長閑な老々の日々で噛み締めている。

広い空の下に

 世の中に妙なことや白々しい嘘が蔓延している。「国民の命と暮らしを守る」とする政府が、その言葉とは裏腹に「Go Toキャンペーン」を中止しない。危機的状況に追い込まれている観光業や飲食店などに配慮する余り、肝心の国民の命が"野ざらし"状態だ。経済を再生すると言葉は立派だが、その割に菅総理や関係大臣の表情に使命感が感じられない。運悪くその場に居合わせたとの観が否めない。

 コロナ禍で経済が失速して危機的状況ならば、何ゆえ国権の最高意思決定機関に関わる者が呑気に選挙違反の裁判などやっているのか。有罪がほぼ確定した段階で直ちに失職追放すべきではないか。この程度の"糞議員"を排出した責任に連座して、国会と政府は報酬額の減額返上をすべきだろう。"我関せず"と涼しい顔をしていられる「無神経」が、この種の犯罪が後を絶たない温床になっている。

 コロナ禍で経営が立ちゆかない業界を国家が救済するならば、業界団体や関係団体を持たない弱者や交通事故被害者は誰が補償するのか。予期せぬ災害はコロナウイルスだけではない。予期せぬ時に見舞われる予期せぬ厄害は、予期できぬゆえ備えようがない。個人レベルで対処できるのは決まって資産豊かな「強者」で、その豊かな資産が補償の対象になる。

 いつ如何なる場合も正真正銘困窮している国民は大抵対象外だ。心底困り果てている貧困層が救われることは滅多にない。一口に「国民」と言っても、現実がそのまま反映されることはまずない。政府が言う国民とは、選挙の際に確実に自公与党へ投票してくれる層だ。業界団体のように直接政治資金の提供はないが、「目に見えぬ暗黙の諒解層」だ。マスコミが好んで使う言葉で言えば「自民党支持層」「公明党支持層」になる。

 それ以外の国民は政府が言う「国民」の範疇にはない。"その他諸々"として、ついでに補償処理されているに過ぎない。「我田引水」が誰憚ることなく大手を振って罷り通るこの時代に、万民に奉仕するイデオロギーは"金の草鞋を履いて"探しても見当たらない。「仮の民主主義」に依存して満足感を得たつもりになっている現代では、政治が目を向けるのは利害に直結する業界団体と相場が決まっている。

 都合が良い時に都合良く物事を解釈するのは各自の勝手だが、国家の信頼度は「非常時」にこそ証明される。右往左往して騒ぎ立てるのは幼稚園児や小学生の訓練で十分だ。人並み外れた"特権だらけの国会議員"が、それと同様の"ドタバタ"を演じるのは所詮「笑劇場」である。予期せぬ時に見舞われる予期せぬ災害を悪用して、巨大な利益を得て私腹を肥やす"悪徳政治家"は五万と居て、皆等しく"涼しい顔"をしている。

 この広い空の下には種々雑多な人間が、種々雑多な思いを抱いて生きている。災難とは誰の精でもなく突然現れる災害だ。個人の災難は多くが「自己責任」として見逃される。否応なしに必死に努力するより手がない。それで及ばざる時は潔く諦めざるを得ないのが実状だ。自分の都合通りに立ちゆかないからと嘆いても、推して手助けする人は稀だろう。それが業界として群れて団体化すれば一転するらしい。

 現在のコロナ禍による業界救済は"何か"がピンぼけの印象が強い。懸命の生き残り努力をする者も、ただ呆然と救済策に縋る者も、等しく"濡れ手に粟"の恩恵が及ぶ。敢えて悪口を言えば選挙時の利益誘導策か、あからさまな現金バラマキに相当する。業界人も、業界外の人も等しく国民である筈で、一方のみを優遇するのは公平の原則に沿わない。明らかな利益誘導を超えた選挙対策と言われても、返す言葉に窮するだろう。

 常に経済が成長せねばならない宿命を負う市場経済を、このコロナ禍にに合わせるのは相当の無理がある。「無理が通れば道理が引っ込む」の例え通り、何やら異次元の観が否めない経済政策が罷り通っている。「非常事態」という言葉が宙に浮いて、この広い空の下を彷徨っている。一体誰が世の実相を見極めて、現実に即した施策を展開できるのだろうか。広い空の下は「無責任に騒ぎ立てる輩」に充ち満ちている。