獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「旨い」と「甘い」

 味がするのは食べ物とは限らない。私たちが日頃何気なく親しんでいる日本語も、実に様々な"妙味"に満ちている。同意語の数の多さと変化の多彩さは、永い年月日本人が創意・工夫を施してきたピカピカの「文化遺産」だ。けれどもそのことに気づいているのは残念ながら"一握りの人たち"だけらしく、多くの日本人は「世界文化遺産」に登録されたものが「文化遺産」だと勘違いしている。

 折からの「Go Toキャンペーン」で政府が税金で旅行を支援する物珍しいイベントでも、人々が出掛けるのは決まって有名観光地だ。良くても悪くても有名でさえあれば"お気に入り"のようで、折角の多彩な日本語や日本文化が理解されているとは言い難い現象が数多く見受けられる。多彩であるということは、それだけ誤解や誤用を生みやすい。多くの日本人が日常で使う日本語にも、実に不可思議な表現がある。

 テレビの食べ物番組に出てくる芸能人は、10人居れば10人皆が「甘い」という感想を洩らす。若いタレント諸氏や諸嬢なら"然もありなん"と納得しないでもないが、結構の人生体験を積んだであろうベテラン勢まで"異口同音"である。然も果物や野菜、肉や魚などの食材の別なく、"異口同音"に"宣う"(のたまう)から始末が悪い。テレビに限らず身近な外食店などへ出掛ければ、嫌というほど同じ言葉や表現を耳にする。

 誤用日本語の代表選手の如き「甘い」だが、説明を要するまでもなく甘味を表す言葉であり表現だ。主に果物や菓子類、スイーツなどを語る時に用いられる。糖類に分類される砂糖成分を指す。使われる糖分の多寡で味の濃淡が決まる。しかし、この言葉や表現が実際に使われているのは、糖分を使用していない野菜や肉・魚類など多彩な食材と料理まで広く及ぶ。

 「美味しい」と「旨い」は同じ意味だが、「甘い」と「美味しい」や「旨い」は意味が同じではない。単純にいえば「甘い」が「美味しい」と同じ意味ならば、全ての食材や料理に大量の砂糖を加えれば良いことになる。食材の品質や料理の是非を問わずに、トロトロに甘くすればいいだけになる。それで万人が美味だと認め、納得して食するだろうか。そんなバカなとお思いの方が多いだろうが、気持ち悪くなりそうな言葉と表現を私たちは考えることなく使っている。

 「美味しいもの」は「旨い」のである。誰も異議を唱えない当たり前のことを、誰彼の真似をして妙にしているのは誰だろうか。砂糖がたっぷりの"超甘味"を何人の人が「旨い」と感じるであろうか。主体性が希薄化した現代社会で、妙なものを妙だと感じなくなったら、時代は何を目指してどこへ行くのだろうか。やがて「旨い」ものを口に出来ない日が来るのではないかと危惧している。

歌は世に連れ、世は歌に連れ

 季節の深まりと共に高層住宅のベランダから眺める景色も彩りを増している。好天に誘われて戸外を散歩したいと思うが、進行する肺癌が容易にそれを許してくれない。妙な咳が出始めて日中も酸素吸入の助けが欠かせなくなった。嫌が応にも余命を自覚させられる毎日だ。唯一ラッキーなのは寝たり起きたりの生活で、歌を聴く時間がたっぷりあることだ。

 木々の葉か色づき目に鮮やかなこの季節は、特別の思い入れがなくてもシャンソンを聴きたくなる。実際にスピーカーから音が出ていなくても、何故か不思議に耳の中でイブ・モンタンやエディット・ピアフが歌っているように聞こえる。長く生きた人生を日々音楽と共に過ごしてきた。和洋様々な歌と雑多に親しんできた。

 音を楽しむことに上下の隔てはないと勝手な哲学を持ち、難解で専門性が高いジャンルから大衆歌謡・民謡に到るまで、分け隔てなく付き合ってきた。いずれであっても自らの心の琴線に触れるものを、自分なりの基準でセレクトしてきた。蒐集した音源のLPやCD、DVDやレーザーデスクの類いは万単位になり、収納に困って殆どを処分した。

 音楽評論家という不思議な職業の人たちが居て、各種の音源について勝手な感想や評価をする。何の責任も負わずに他人の音楽活動を云々することに腹立ちを覚え、それらの評価と異なる実際の活動を始めようと会員制の音楽鑑賞団体を創設し、各地に大小様々なライブハウスを作った。差し障りが出ると迷惑するので実名は伏せるが、それらの活動から巣立ったバンドやミュージシャンが数多く居る。

 齢80となって酷使してきた耳が難聴に見舞われた。日常会話にも事欠く状態である。目も片方がグニャグニャで、視聴覚双方に重大な支障を及ぼしている。肺癌再発と転移に脅える毎日だが、それでも残り僅かな余命を音楽と過ごせていることに"得も言われぬ"幸せを感じている。自己流の耳のリハビリに始めた歌との付き合いが深まるにつけ、聞こえぬ耳に歌が届くのである。

 シャンソンの中でも数多く聴いてきた有名曲の「枯葉」や「バラ色の人生」などは取り敢えず敬遠して、余り有名でない隠れた名曲を聴いている。新旧色々だが、どうしてか新曲で印象に残る曲は殆どない。ノスタルジーを完全には否定できないが、それにしても「不作な時代」とでも言いたくなる様相だ。

 シャンソンの名曲の一つに「行かないで」という曲がある。随分色々な歌い手のものを聴いてきたが、最近は専ら3人の歌い手を聴いている。馴染み深い歌い手ではない人の歌唱に、ハッとさせられることが時々あるのは妙味だ。定番の金子由香利に加えて、女性歌手のカバーで名を馳せた徳永英明がいい。

 金子由香利は少し古い2004年のアルバム「人生は美しい」で、徳永英明は2013年の「STATEMENT」に収録されている。この2枚に加えてジャズのニッキ・パロット2013年「思い出のパリ」のシャンソン名曲群に加えられている。三者三様甲乙はつけ難いが、本流とも言うべき王道の金子由香利はいつ何時何回聴いても心に沁みる。

 徳永英明とニッキ・パロットは意外感が漂うが、どちらも忘れ難く、捨て難い味わいがあっていい。懐かしい部類では越路吹雪石井好子などが居たが、妙な癖が鼻について好きになれなかった。男性陣では淡泊な歌唱の芦野弘と、独特の雰囲気を持つ高 英男などが居たがご記憶の方は少ないだろう。

 タイトルの「歌は世に連れ、世は歌に連れ」は使い古された表現だが、オールドファンなりの感想を言わせて貰うなら昨今はこの言葉が死語化している感が否めない。善し悪しは兎も角として"古き良き時代"には時代を象徴し、時代を牽引するかのような歌があった。娯楽が多様化し、それに連れて個人趣味も多様化したまではいいとして、人の心を動かす名曲がなくなった。

 "豊かで便利な時代"と言われるが、その言葉を額面通り受け取るのは些か抵抗がある。豊かなのは「利益を得るための楽曲」で、人の心を揺り動かして時代を築く歌には随分ご無沙汰だ。どんなに時代が便利になっても、インスタント・ラーメンやレトルト食品のように、即席で「感動」は生み出せない。時代を生きる人々の感性が息づいて、本物と偽物を嗅ぎ分ける能力を持たねばならないだろう。

 舗道に枯葉が舞う季節になって、人の心に秋の情緒が蘇る時代は遠くなった気がする。大量生産されてすぐに廃棄される「商品楽曲」を押しつけられ、それに翻弄されている時代が何ゆえ"豊か"なのか。シャンソンの名曲「行かないで」を繰り返し聴きながら、ふとそんな感慨を持った。新しいものと、古いもの、本当に新しいのはそのどちらだろうと思わず考えさせられた。

 高層住宅のベランダにも、風に乗って飛んできた枯葉が1、2枚足元に落ちている。去りゆく時代、去りゆく季節、去りゆく季節の色合いに、多くの未練を残しながら私の命も間もなく尽きる。憂い多い人の世の常とは言え、過ぎゆくものはすべて儚い。万感を乗せてシャンソン「行かないで」は切なく響く。果たして"世は歌に連れる"だろうか。

時代から消える「丁寧」

 コロナ禍が一段と深刻さを増す現在は、物事万事から「丁寧」という言葉が消えつつあるようだ。何事も新型コロナ・ウイルス感染拡大防止のためという大義名分の前に、緊急時に用いられるスピードと効率が優先されて、本来あるべき「丁寧」に目をつぶっている観が強い。コロナの猛威が長期化する中で、「丁寧」を欠く対応が副作用として社会のあちらこちらに定着して、やがてそれが"常識化"する気がしてならない。

 新型コロナ・ウイルスの感染拡大が始まる前から、現代社会は「効率」優先へ舵を切って形振り構わぬ「利益追求」に狂奔されている。"理"を考え、"義"を全うすることが赤錆びた時代認識になり、人間本来の「人間らしさ」はフィクションの世界で見かける戯曲になった。創作された"人間らしい物語"に人々は感動して、公開の場は長蛇の列を成すのである。

 効率と利益が優先される社会では、それと相反する「丁寧」が邪魔になる。肯定性が希薄になってむしろ非効率的な"排除するべきもの"になる。丁寧さの根本は「思い遣り」なので、"親切"とか"気配り"も一緒に排除するべきものに位置づけられる。人間が人間として人間らしく生きるために、本来欠かせぬ要素が市場経済の「効率」によって追い詰められている気がする。

 「丁寧に誠を尽くす」という日本人本来の"日本人らしさ"を象徴するのが「丁寧」だと私は思っているので、社会のあちらこちらで散見する「丁寧を欠く事象」には、寂しさを超える"腹立たしさ"さえ覚えている。日本人が日本人として生きる第一義の日本語然りである。必要最小限という"効率"が、日本語が本来持つしっとりとした情緒を消し去り、無味乾燥した用件だけを伝えるだけの機能言語になっている。

 人間同士が触れ合う接触機会がコロナ禍で否定され、学校教育さえIT化されてパソコンに依存している。各世代の老若男女がそれぞれに孤立化し、家族という生活基盤さえ関連性や連携が薄れようとしている。人間が人間としての触れ合いが遠のけば、言葉は益々情緒や風情を失い、生身の血の熱さを伝えられなくなる。やがて石ころのように、無用な邪魔ものと認識されるようになる。

 「丁寧」を尽くすのにお金は掛からない。少しだけの"思い遣り"があれば誰にでも出来る。例え非効率であろうと相手を思い遣り、自分の気持ちを省略せずに伝えれば、生きた人間感情が伝わる。生身の喜怒哀楽が伝わって相互に共有できるのである。「共感」が単なる言葉上のことではない、心身に実感できる"感動体験"になる。言葉の短文化は自分自身が持っている大いなる可能性を否定し、それらの機能や能力を放棄するに等しい。

 物事を「丁寧」に行うためには少しだけ思慮せねばならない。どうすれば相手の心に響きを伴って伝わり、余韻を引いて残るかである。自らの心にも大小様々な波紋が拡がるだろう。それらの一つ一つを見詰めることでより相手と、また自らとも距離が近くなる筈だ。一見無駄に思える情緒や風情は、永い年月を経て日本人が日本人であるために蓄積してきたもので、民族遺産であると同時に人類遺産でもある。

 言葉のみならずその表現についても、時代が置き忘れてきた「遺産」が数多くある。単に"古き良き文化"に留め置かず、大いに活用して磨き上げれば「得も言われぬ輝き」を放つだろう。人間生活と人間個々の光沢は、各人が少しだけ努力することで得ることが出来る。「丁寧」に物事を行う意義を、コロナ禍中に覆われた時代だからこそ一考してみては如何だろう。

 何事も失われてから気づいても手遅れということがある。そうならないためにも、より「丁寧」であるべきだと時代に要請したい。市場経済の論理とは相容れないが、だからこそ熟慮に値すると私は思っている。

アンバランス社会

 現在の世の中は居心地が良いようで、必ずしも居心地が良いとは言えない妙な世の中である。連日アメリカ大統領選挙の続報がテレビで伝えられているが、世界の最先進国とは思えない光景が目に映る。身近な我が国の政治状況を見ても、世界の先進国に列挙される国とは思えない事柄が数多い。

 先日読んだネット情報で先進国の保守化云々が書かれていたが、最早誰の目にもそれは明らかだ。少し前の時代までは光り輝いていた人間社会の理想がしおれた花の風情と化した現在は、市場経済の利益追求のみが唯一無二の正義と真実として輝いている。民主主義の疲労感が濃厚で、それに代わるべき主義・主張が見当たらない悲惨な時代とも言える。

 そんな国難や各種の難儀が目白押しの状態にあるので、我が国のみならず世界の国々に目を転じても「理想」や「希望」を見つけるのは容易ではない。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選して驚いたのは4年前だが、我が国はというと永久に続くと予想された安倍前総理の突然の辞意表明で、保守政権の看板の付け替えが行われただけだ。中身は何も変わらない。

 我が国の政治局面に一昔、二昔前までは、「保守と革新」という言葉があった。その言葉が色褪せて使われなくなって久しいが、現実の世の中は「古くて新しい保守」と、「新しくて古い革新」とに大別されている。保守一強ともいうべき政治体制が築かれ、革新を担う野党勢力は10年一昔相変わらずの同道巡りを繰り返している。お世辞にも新しくて民主的とは言い難いのが我が国の野党だ。

 無風状態で何も変わらず、変わろうとしない我が国政局を見るにつけ、善し悪しは別としてアメリカが羨ましくなる。主義・主張のみならず政策が異なる対立候補が居て、その基盤を成す政党が存在する。我が国の政党はといえばご都合主義の与党と、野党は一向に腰が定まらない浮き草か、カビが生えているイデオロギーを振りかざす恥知らずである。

 ご都合主義の保守政党が如何なる横暴を繰り広げようと、口先だけの野党に阻止するパワーはない。ゆえに何をやろうと勝手気ままな与党保守勢力の自由天下である。硬直化して岩盤の如き様相の我が国政局に関心を持つ国民は殆ど居らず、選挙に出向くのは宗教政党の万年支持者か暇で元気な高齢者だ。"変わらぬ政治"を望んで"変わらぬ投票"をするお飾りセレモニーになっている。

 野党に期待する有権者は殆ど居らず、野党票は何ら活動をしない労働団体に属する労働者票と、100年前のマルクスレーニン主義を未だに標榜する共産主義夢想者層だ。凡そ地に足が着いているとは思えない、実効性が乏しい非現実票である。国民が何を期待し、何を望んでいるかに応えようとしない点では傑出しているが、その点でも民主主義が機能しているとは到底思えない。

 アンバランス化した社会現象は世界に類例を持つが、民主主義の本家ともいうべきアメリカ社会でも、大資本や富裕層を足場にする共和党を衰退産業の労働者が支持する"新保守層"が出現して、凶暴な利己主義のトランプ政権が4年前に登場した。さすがに"低脳政策"が継続されることなく終焉を迎えたが、"正気の民主主義"が生存しているのを大統領選で証明した。

 国民が動けば政治も動くことを示して余りあるアメリカ社会の正義が眩しい。どこをどう探しても我が国政治には見当たらない。国民の側にも共通している。口先で批判はしても、実際の行動で政治を変えようとの意思を持つ国民は一握りだ。それ以外の国民の大多数は、世の中の流れを横目に見て同調する"浮き草野党"と同類だ。政治が自分事であるとの認識を欠くのが、残念ながら実態である。

 良きにつけ悪しきにつけその国の政治はその国状を示している。国民意識の高低を如実に示している。人類社会の理想とされたマルクスレーニン主義が様変わりしたのは随分前だが、以来人間社会を牽引するイデオロギーが消滅した。民主主義は衰退の一途を辿って、必ずしも民主的とは言い難い「市場経済」が君臨している。人間本来の品性が失われて、形振り構わぬ金儲けがグローバル主義だと讃えられている。

 人間の良心と歴史の歯車が狂いだして、カネのパワーだけが突出して地球上を闊歩している趣だ。この時代を我が物顔で謳歌する人の傍らで、拡大一途の格差社会に取り残されている人々が居る。自由で平等を理想とする人間社会はどこで道を間違えたのか判らないが、その理想像や希望像と極端に乖離する方向へ走り出している。多くの人は気づいているが、本気で軌道修正しようと取り組む人は居ない。

 この時代が居心地の良い時代か否かは、人それぞれの認識の違いによって大きく異なると思うが、居心地が悪い不幸な時代だと認識せねばならないのはそれこそが不幸である。人間誰しも悲しい思いや苦労をするために生まれ来ては居ない。一人一人のその思いを汲み上げて具現化するのが民主主義であり、そこに政治本来の役割がある。その原点を顧みれば、何が必要で何をすべきかが自ずと判明する。

 何かが狂ってバランスを欠いた社会は居心地が悪い。病人高齢者は残り僅かな余生を、せめて邪念なく過ごしたいものだと願っている。

軽い時代

 20世紀後半から世界は「軽い時代」に突入したようだ。資本主義の断末魔「市場経済」によって、曲がりなりにも「豊かさ」を手にした人々は、その渦中で生じた「格差社会」や「社会の分断」をも手近なものとして受け取った。何故か"豊かさを実感できない"ままに、何かに急き立てられるような"忙しない時代"に生きることを余儀なくされている。

 資本主義の「市場経済」は自由の名の下に、富の攻防を繰り返す過程で様々な副産物を生み出した。富める者は更に富んで、貧しい者は更に貧しさに喘ぐ図式を日常化し、そのまま「強者」と「弱者」を認知する現代社会を誕生させた。科学技術の進歩と発展によって、"額に汗する労働"が衰退し、空調された室内でパソコンに向かう新しい労働形態が一般的になった。

 種を蒔き、苗を育てて、水田に植え、照る日も曇る日も、雨の日も風の日も、ひたすら辛抱強く稲を保護して米を収穫してきた私たち日本人の暮らしが変わった。「農耕民族」という言葉を、現在どの程度の日本人が知って居るであろうか。学校教育が時代と共に様変わりして、私たち日本人の暮らしの原点を知り考える学習から、テストでの点数稼ぎのための"暗記学習"が主流になった。その技術を伝授する学習塾が全盛で、その巨大な利権が今や学校教育の現場を席巻している。誠に妙な時代である。

 私たちが毎日の生活で口にしているお米や野菜・肉や魚が、どういう生産過程を経て私たちの家庭の食卓に上がっているかを、果たして何人の日本人が正確に知っているだろうか。どれだけの人々が生産に携わり、それぞれの過程でどんなドラマを経て私たちに届くのかを、自分の生活なのに実状をどれだけ知っているだろう。愛や恋を語るのもいいだろう。最新の流行を追うのもまたいいだろう。けれど何かが違いはしないか。

 私たちは果たして自分のことをどれだけ知って居るであろうか。自分自身は何ら貢献しなくても豊かになった社会で、何の疑いもなく当たり前に生きて暮らしている。高学歴社会だと言われて、何を学ぶのか定かでないまま大学へ入り、そこで自分自身の原点や暮らしを学んだであろうか。学ぶことの意味を理解しないまま、テストが終わると綺麗さっぱり忘れ去る学習を長く続けてきて、本当に自分の知識が豊富になっただろうか。

 自分の暮らしの足元が覚束ず、何やら"訳が分からない"小難しい理屈を教え込まれて、訳が分からないままに「知ったか振り」していないか。理解した気になっていないか。みんながそうしているからと、疑うことなく同調していないか。知らず知らず"群れて流れる"習性を身につけていないか。難しい理屈を知らなくても、我と我が身の"程"を知れば生活が見えて来るし、自分や家族の人生も考えられる。どう生きるかの基軸が定まる筈である。

 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で感じて、そして自分の頭で考える。人間としての原点はそれだけの単純なことだ。物事の善悪や正邪の判断は、他人の受け売りではない自分自身の判断で行い、自分が決めたことに責任を持つ。当たり前のようでいてその実当たり前に出来ていない諸々が、いかに多いかに気づけるだろうか。自分自身のドラマを実感したら、今日や明日の彩りが変わるのに…

 他人が決めたことに流されて、訳が分からぬまま何となく生きても、本当に納得できる生活や人生は縁遠いだろう。人間として生きるために学び、その知識を広げて日々の暮らしを考える。一つ一つのことを実感出来る人生と、訳が分からず流される人生とでは、当然得られる満足感が格段に違うだろう。"軽い時代"だからと、自分まで軽くして生きる必要は更々無い。全て自分次第である。

 物事を軽く受け流して"遣り過ごす"のが時代の主流だとしても、思慮分別なくそれを繰り返していると終焉を迎えるアメリカの「トランプ時代」同様になる。「思考」や「熟慮」と相反する、"単純な低脳化"に支配されることになる。人間が軽くなってヘラヘラ笑っているだけの時代が「快適」だと感じられるだろうか。私たちは今その時代に足を踏み入れ、「市場経済」の利益にひれ伏す人生を生きているのである。

ものの順序と学術会議

 世の中のことは須く順序がある。目に見える、見えないに関わらず、それで世の中の秩序が形成されていると言って過言ではない。でも現実にはそう思えないことが沢山ある。国会で話題が集中している「日本学術会議」のメンバー問題がそうだろう。凡そ学術と関わりがあるとは思えない面々が、連日国会の場で「あーでもない、こうでもない」と与野党がやり合っている。

 この国は誠に平和であると言えば良いのか、それともすることがなくて退屈だから、暇つぶしにどうでも良いことを酒の肴にしているのかさっぱり判らない。確実に言えるのはどの顔を見ても厳粛な学問と付き合いがありそうになく、その内容について理解と知識が豊富だとは思えないことだ。言うなれば学問と最も縁遠い下世話の衆が、あたかも鬼の首でも取ったが如く"宣う"のだから、これは最早「落語」の世界である。

 物事には順序が存在するが、そもそも政府と国会議員諸公に学術会議を云々する資格があるかを尋ねねばなるまい。物事の順序で言えば、学術会議を云々する前に自らの足元の議員特権に目を向けねばならないだろう。菅総理が言う"既得権益"の代表例が、国会議員の特権であるのは誰の目にも明らかだ。立法府の立場を利用して"お手盛り"を繰り返し、議員自らが自分で自分を"太らせて"来た歴史を顧みるべきだ。

 改革・改正が必要な"既得権益"はそればかりではない。国民生活に直結する利害は数多く存在する。それらの中で飛び抜けて目立つのが政治絡みの「特権」である。前安倍政権で話題になった「モリ・カケ」教育利権も、真相は依然として闇の中に温存されている。立法府の国会が率先してやるべきは、自らに絡む無数の"既得権益"の壁を打破することで、複雑に絡み合う「岩盤権益」に出血覚悟で立ち向かうことだろう。

 それらの本命に"頬かぶり"して素知らぬ顔で学術会議のメンバーに言及するなど、文字通りの"笑止千万"である。物事の順番が違うと指摘せざるを得ない。自らの身を正してこその学術会議であり、学問と教育の真理と独立性が語れることを認識せねばならない。利権の汚辱にまみれた議員諸公が学問云々を語っても、国民の誰がそれを支持するだろうか。ただ単に看板を付け替えただけの"安普請内閣"と、"暇つぶし"をしているだけの国会風景は、いい加減辟易である。

鰯雲

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 秋の日は一日ごとに様々な変化を見せてくれる。何気ない日常の中にも色々なドラマがあることを教えてくれる。移動することなくその場所に在り続ける樹木も、秋という季節を迎えて日々装いを変えていく。昨日と今日が確実に違うのだと気づかせてくれる。同じように見えるのは見る人間の思い込みで、その分自らの変化にも疎くなっている。

 空は実にドラマチックで、突き抜けるようにどこまでも高い青空もあれば、白いちぎれ雲が点々とゆっくり動くこともある。この季節は更に「鰯雲」が加わり、千変万化の趣を増す。どんなに豪華な競演を長時間見ていても、NHKのように視聴料を強制徴収には来ない。富める者にも、貧しき者にも、老若男女等しく無料公開である。

 海や野山の風景は無粋な権利者が居ないので全て無料だ。誰かのためにそこにあるのではなく、自然の法則に沿ってそこにある。人間が万物の霊長だとしても、海を作った人や山を作った人は居ない。なのに時折人間は増長して、自分本位に物事を理解しようとしたり、あたかも自分に好都合な権利などを主張する。

 不思議なことに誰にでも無料公開されている自然を見るために、まるで映画や舞台のロングラン興業の如くに列を成して一斉に出掛ける。安くはない交通費を費やし、挙げ句の果ては衣服や食料まで整えて群れて戯れる。それが当たり前であるかのように錯覚して、誰一人として自らを省みたり疑うことをしないのだ。誠に不可思議千万である。

 空や景色は特定の誰かのために表情を変えることはない。見る位置で多少の違いはあっても、等しく美しさや恐ろしさを公開している。どこからでも入場無料の天然ショーを体験することが出来る。心を研ぎ澄まして、或いは開放して、あるがままの自然を受け入れるか否かは自由だ。人間として生きるのも死ぬのも、何ら自然の責任ではない。

 小さな命か大きな命かは各人それぞれだと思うが、そんな人間の思惑を超えて天然ショーは日夜続く。エンドレスゆえ延々と終わりがない。日々色合いを深める木々の紅葉も、すくに消え失せる鰯雲も、見る人それぞれにそれぞれの感慨を残す。赤く燃えるように西空に消える夕陽にも、春夏秋冬それぞれの趣がある。気づくか否かは自分次第だ。